15.
両親の死
◆死に目に会えず
子どもは、物の順番からいって、いずれ親の死を看とらなくてはならない。クラマーさんのご両親は、ともにクラマーさんが外国でサッカーの指導をしている最中に亡くなった。
クラマーさんのご両親 |
父親デットマール・クラマーT世は1962年1月、日本で若い選手を指導しているときに、また母親イレーネは1997年6月、中国にいるときに亡くなった。知らせを受けて急遽帰国したが、ともに死に目に会えなかった。
若いころ造園の仕事をしていた父親は、とくに日本庭園のことを勉強していた。「少年のころから、父は日本の話をよく聞かせてくれた。日本行きを心からよろこんでくれていた」と、クラマーさんは言う。
第一次大戦に駆り出された父は、フランス戦線のベルダンで両足のヒザから下を切断する重傷を負い、義足になっていた。調子が悪くなるたびに少しずつ骨を切断したが、その度に足が短くなっていった。そんなハンデにめげない意志の強い我慢強い人だった。
◆クリスマス休暇が最後
クラマーさんは、父が亡くなる前年暮れのクリスマス休暇で1週間ほどドイツに帰ったが、父はその直前にも足の骨を少し切る手術をしていた。病院に見舞って、車椅子を押して一緒に散歩した。父は「大丈夫だ、心配するな」と、元気そうだった。
クラマーさんは「日本での仕事が終わる来年6月に、帰ってくるから元気でいてくれ」と別れたのが最後になった。
手術の経過は良かったのに、肺炎を併発して高熱に悩まされ亡くなった。63歳だった。亡くなった1月12日は、くしくも第二次大戦のベルリンの攻防で死んだ弟(次男)の誕生日と同じ日だった。
訃報をきいたのは、キーパーの浜崎昌弘(明大)の父親が経営するホテルに泊まって、岩谷俊夫といっしょに大阪で若い選手の講習会をやっていたときだった。午前の講習中に、竹腰重丸が真っ黒な洋服姿でやって来たので、ちょっと不吉な予感がしていたら、その後、電報が届いた。「父のことですか」と聞いたら「そうだ」という答え、それですべてを知った。
◆岩谷に任せて帰国
岩谷に後を任せて、大阪から帰京すると、下宿先の吉原郁夫さんの奥さんが旅行カバンに衣料など当座必要なものを詰め込んですべてを準備していてくれた。すぐにドイツ行きの飛行機に乗った。
朝8時に着いて、葬式は午前11時だった。その直前に斎場に着いた。死に目には会えなかったが葬式には間に合った。スポルト・シューレでクラマーさんの下で働いていたアシスタントたちが、すっかり葬式の準備をしてくれていた。
クリスマスに帰ったとき、「オレは大丈夫だ」と力強く言った父が本当の父の顔であり、死に顔は見たくなかったので見なかった。元気な顔を記憶に残しておきたかった。葬儀で5日間休んで、日本へトンボ返りした。その間、岩谷が講習会をやってくれていた。
父は乗馬が好きで近代五種の選手だった。一家はクラマーさんが11歳のころ、ベルリンに住んでいて、オリンピックのサッカーを父といっしょに見た。ドイツがルクセンブルグに9−0で大勝した試合も、ノルウェーに0−2で敗れた試合も見た。
◆学生が旅費をカンパ
クラマーさんが急いで帰国する前、日本協会の会計担当で、中大監督の小野卓爾が「学生達がカンパして集めてくれたものだ。旅費の足しにしてほしい」と、封筒を手渡してくれた。中大の野村や上野選手が、ほかの大学にも呼びかけて、募金してくれたものだった。クラマーさんは驚いた。
「ドイツにはそんな習慣はない。父の死は完全にプライベートなことではないか。何でそんなことをするのか不思議な気持ちだった。東京にいるとき、週に1回巡回コーチとして各大学を回ってコーチしていたのを恩義に感じてくれたのだろうか」
日本に帰ってきた時、その金を小野に払おうとしたら「ダメだ。いったん渡したものだから」と、ついに受け取ってくれなかった。
「野村、上野は小柄だったが、頑張りの効くいい選手で、息子のようなものだった。とくに野村は器用で、相手の股抜きをやったりして喜んでいた。60年にはスポルト・シューレにやってきたし、63年プレ五輪ではBチームにいた」
◆母の死
ずっと後のことになる。クラマーさんは1997年2月中国から誘われ、2002年2月まで丸5年間、ずっと中国に滞在し、各地で主に指導者の講習会をやった。教え子には、その後代表監督や中国リーグの監督になった人がたくさんいる。中国の指導者組織を完成させたと言っていいだろう。母親は、クラマーさんが中国に行った4カ月後の97年6月1日に亡くなった。93歳だった。
母の名前イレーネはギリシャ語で平和という意味だった。少女のころボート選手だった。クラマーさんが第二次大戦に駆り出される前、そして戦後も、生まれ故郷のドルトムントのウェストファリア週報という新聞社で記者をやっていた。孫をかわいがってくれた。息子は学校から帰ると、母親のところへ行く前に、すぐおばあさんのところへ行ってお菓子をもらうのを楽しみにしていた。
その後ずっとフランクフルトに住んでいたが、90歳のころ、クラマーさんが住むライトイムウインクルの家に来てもらった。ところがクラマーさんが中国に行くことになったので、こんな階段の多いところ(クラマーさんの自宅は半地下を合わせると4階建て)に一人で住めないというので、病院兼療養所に入院させた。
中国にいるクラマーさんに、母の担当医から「病状がきびしい状態にある」という電話があった。あわててドイツに戻ったら死んでいたので呆然とした。
母は年をとっていたが、自分の身の回りのことはきちんとやっていた。快活で人間関係が好きだったから、読書やテレビだけでは満足できず、仲間が必要だった。その点、施設はすばらしく、たくさんの友達ができた。療養所では、元新聞記者らしく毎日手紙を書いていた。遺品の中から未投函の手紙が30通も出て来た。
両親の墓は、スポルト・シューレがあるデュイスブルクにある。
◆弟は戦死
クラマーさんには弟が一人いた。ホルストといい1927年ドルトムント生まれで、電気技師をめざしていた。義務年齢の17歳で兵士に駆り出され、ステンダールで訓練を受け、その後、最激戦地ベルリンに配置されていた。クラマーさんは将校だったから、何とかして弟をベルリンからオランダに呼び寄せようと思っていたがかなわず、戦後ずっと消息不明だった。
弟のホルストさん |
母は、弟がもしやドルトムントに帰っているのではないかと、弟の写真を町のあちこちに張って消息を求めた。中にはガセネタを持ってくる悪いヤツがいたりした。情報を持ってきてくれれば御馳走の一つもせねばならず、母はたいへん苦労していた。
やっと3年後の1948年になって消息がわかった。国際赤十字を通して、1945年4月30日に戦死していたことを知った。終戦は5月6日だったから、その一週間前だった。何とか生き延びていてくれなかったものか。18歳の若い命だった。
「80歳を超えて、私がいまなお元気なのは、若くして死んだ弟が命を分けてくれているのではないかと思っている」
★ クラマーさんとの会話(15) 「ノスタルジーなし」
中条 クラマーさんは日本に来たことがきっかけになって、ドイツ協会のスタッフから離れ、世界の80カ国を回ることに……。
クラマー いや80カ国じゃない。90カ国を訪れた。
中条 その間、ご両親を失われた。旅ではたいていホテル住まいで、一人でしょう。ドイツへのノスタルジーを感じませんでしたか。家族が心配だとか。
クラマー まったく感じなかった。指導する対象とか期間によって、教える段取りや内容が変わってくる。1日が終わると、翌日どうしたらいいかを考えた。サッカーのことばかりで、ノスタルジーを感じるヒマもなかった。一度だけかなあ。息子が悪い友達とつきあって、グレそうだと聞いた時、日本にいたのだが、少し心配したことがある。
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