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対外試合の成果
◆新コンビの初仕事は3国対抗
1962年12月に就任した長沼監督−岡野コーチの初仕事は、ソ連のモスクワ・ディナモとスウェーデン選抜を招いての「3国対抗」だった。
ディナモは全ソ・リーグ2位で、鍛えられたしなやかな個人技を特徴としていた。そのころ日本オリンピック委員会は、東京大会の選手強化の一環として、日ソ・スポーツ協定を結んでいた。その協定による招待だった。
スウェーデンは五輪出場予定の若手に、グスタフソン(イタリアのプロにいた)ら2、3のベテランを加えた実力チーム、アジア遠征の最終地として日本を選んだものだった。
◆多かった収穫
試合結果はスウェーデンに1−5(1−4)、ディナモに2−3(1−1)と、日本代表は勝てなかったが、収穫は多々あった。
その第一は、ディナモに善戦したこと。60年夏、ソ連に遠征した日本代表は、同じタイプのトルペド・モスクワに手も足も出ず、0−8で大惨敗したことがある。だが、ディナモには、後半はじめに2−1とリードしたほど。最後の10分間に2点を失い惜敗した。
初采配の長沼監督は「全員ペナルティエリア内にもどって壁をつくれば、あるいは勝てたかもしれない。だが、それでは勉強にならない」と強気に語った。
「外国、とくに欧州タイプの比較的クリーンに戦ってくれる相手には、かなりやれるようになった」との論調があったが、これもホーム・ゲームなればこそ。リードした後に、中盤でもきちんとパスしながらキープできる力を養うべきことを教えてくれた。
◆Bチームの結成
第2の収穫は、「日本代表」というAチームのほかに、初めて「日本選抜」というBチーム、さらに23歳以下の「日本ジュニア選抜」を作り、親善試合をやったことだ。これは、クラマーさんが常々「代表選手の層を厚くするためには絶対に必要」と言っていることだった。
その利点は、A、Bの中からコンディションのいい選手を代表に選べば、それだけ選ぶ範囲が広がる。ケガをしたり、スランプで代表からはずされて挫折感を抱く選手も、Bで頑張ってカムバックが狙える。技術が未熟で、到底Aに入れないような選手も、Bで鍛練すればチャンスが出て来る、などだった。
日本選抜は日程の都合でスウェーデンとは試合が出来ず、ディナモと2試合した。第1戦は前半よく守ったが、後半多彩な攻撃にゆさぶられて0−5(0−0)で敗れた。だが、第2戦は2−2(2−1)で引き分けるという健闘を見せた。日本代表が惜敗した翌日の試合で、ディナモにゆるみが見られたが、来日した欧州の一流チームに引き分けたのは、戦後初めてだった。
ジュニアは、大学生中心の速成のためもあって、ディナモに0−2、スウェーデンに0−4、内容も完敗だった。
◆満員の大観衆
第3の収穫は12月16日の最終戦、外国同士のディナモ対スウェーデン戦で、会場の後楽園競輪場が約3万人で超満員になったことだ。欧州の一流同士の初試合は、興業として成功するかどうか危ぶまれていたが、好意的な新聞論調にも助けられて、通路まで人で埋まり、その心配を吹き飛ばした。試合はディナモがやや優勢のうちに0−0で終わったが、ディナモの世界的な名キーパー、レフ・ヤシンが美技をみせた。
◆3度目のスポルト・シューレ
長沼監督に率いられた日本代表は、63年5月24日から7月3日まで欧州に遠征した。この間、約4週間デュイスブルクのスポルト・シューレに滞在した。60年、61年の高橋前監督に次いで3度目のデュイスブルク訪問だった。
ヘディングの模範を見せるクラマーさん(左)。右はウリ・へーネス。
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クラマーさんにみっちり鍛えられながら、西ドイツ五輪代表や各地のジュニア選抜と5試合したが、相手のドイツのチームは、ブンデスリーガが作られる直前のセミプロということもあって、日本は失点実に25、得点は宮本輝紀が挙げた1点のみ。アウエイ・ゲームの苛酷さをいやというほど見せつけられた。
クラマーさんは、3国対抗のことは岡野コーチからの手紙で知っていたが、「実際に日本選手と接して予想以上にレベルが落ちていることに」驚いた。「日本はとにかく外国チームと接する機会が少ない。1試合でも多く国際試合をやり、それもアウエイでの経験を積むべきだ」と強調した。
クラマーさんは、練習の合間にドイツ・リーグやサントス(ブラジル)対シャルケ(西ドイツ)の国際試合などを見学させ、翌日の講義でこと細かに試合を分析してみせた。選手たちは、初めてみたペレ(サントス)のプレーに驚嘆するとともに、世界の厳しさを実感した。
◆国際感覚の欠如
私見だが、当時の日本にいちばん不足していたのは、国際感覚だった。長沼−岡野コンビの東京オリンピックへの本格的な準備は、事実上、この63年の欧州遠征とスポルト・シューレでのクラマーさんよる3回目の熱烈指導から始まったとみる。
当時、選手はアマチュア(つまり会社員と学生)で、サッカー協会が直接管理することはほぼ不可能だった。3国対抗以後ヨーロッパ遠征まで、代表選手は1回も招集されておらず、停滞もやむを得なかった。
ドイツでの合宿の後、長沼らはオーストリア、デンマークへ移動した。レベルの低い相手でもあり、オーストリアでは2戦2勝、デンマークでは1勝1敗。遅まきながらチームが形を成してきた。
東京オリンピックまで、あと約1年。日本代表はヨーロッパ遠征以後、試合を重ねてようやく強化が軌道に乗り始める。8月のムルデカ大会、 10月のプレ・オリンピック、年が明けての2月の東南アジア遠征と国際試合が増える。オリンピックゆえの選手の所属会社の協力があったこともみのがせない。
◆釜本Bチームに
この年63年、日本代表の帰国と入れ替わるようにしてBチーム(水野隆監督)が日ソ・スポーツ協定にもとずいて7月26日から8月22日までソ連に遠征している(5戦全敗)。
Bチームのメンバーに、その年の4月に早稲田大学に入学した釜本邦茂(19歳)の顔がみえる。
★ クラマーさんとの会話(19) 「指導者は哲学を持て」
中条 指導者で大切なことは何ですか。
クラマー 「自分たちのサッカーをやる」というきちんとした目標というか哲学を持つことだ。ドイツ人は、駄目だと分かると必死でほかの道を模索する。それが徹底しているから、選手も理解する。そして長所を生かし、短所を改める、それがトレーニングだ。
中条 日本の指導者はどうですか。
クラマー 医者と同じで、いい指導者も悪い指導者もいる。だが、平均して、質はドイツより高いのではないか。ドイツには無知なくせにオレがオレがと妙な自信を持つ連中がいる。日本の指導者は質は高くても「自分のサッカーをやる」という哲学を持つ人が少ない。協会の強化責任者は、そこらあたりをよく考えてほしい。
中条 そうかも知れません。
クラマー 一般論としては、個人の能力の開発はむつかしくなりつつある。最近の問題は、サッカーをやらなくても、ほかにやること、楽しいことがあり過ぎるのが問題だ。どうしたらサッカーをやるチャンスを与え、興味を持たせるように仕向けるか。それが大きな課題だ。
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