25.
いよいよ東京五輪へ
◆3カ月の長期合宿
1964年東京オリンピックめざし、日本代表はラストスパートの時期に入りつつあった。10月の本番まで、選手はどんな心構えで日常生活を送ればいいのか。日本代表にとって、初めての課題をつきつけられていた。
2月の東南アジア遠征ではまずまずの成績を残した。この好調を維持しながら、具体的に何をやるべきなのか。
トレーニングをやるしかなかった。「試合、そしてトレーニング。その繰り返ししかない」というクラマーさんの言葉通り、4月10日から6月30日までほぼ3カ月間。千葉県検見川で強化合宿をやることになった。日本代表候補として合わせて30人が集められた。
3カ月間の合宿は、まさに異例というべき長期間だった。世界的にみても、国家選手がいた当時のソ連や中国ならいざ知らず、とくにプロ化した現在では、所属チームがこんなに長い間、選手を手放してくれない。西欧で働く日本選手は、国内選手以上に自由はない。もし招集できてもせいぜい1週間程度だろう。
そのころの日本は全員アマチュアだった。勤務先や学校を全休するわけにはいかない。そんな中で、至上命令ともいえる3カ月間をどうやってひねり出すか。長沼監督ら協会幹部の発案で、最初の9週間は早朝のロードワークを終えた後の午前中、サラリーマンとして検見川から東京へ通わせることになった。
関西や九州の選手は、会社の協力を得て、東京への短期間の異動を認めてもらって通勤した。釜本はじめ杉山、森、山口、小城ら現役学生はそれぞれの大学に通った。午後トンボ帰りして、3時からのトレーニングをこなした。地元開催のオリンピックで、挙国一致的な雰囲気があればこそやれた3カ月間だった。
◆「生活にリズムを」
長期合宿に当たって、クラマーさんは長沼監督ら首脳陣へ次のようなアドバイスを残していた。
「長く合宿していると、肉体的な疲労よりも精神的な疲労が溜まって能率が落ちる。それを乗り切るには、だらだらと時間を浪費するのではなく、生活全体にリズムを持たせることだ」
リズムを持たせるため、クラマーさんの指導で毎週のスケジュールがきちんと決められた。月と水曜日はコンディション、テクニックを中心としたトレーニング。火、木曜日はタクティックを中心としたトレーニング、金曜日は休養、土曜日は一流チームを招いてのゲーム、日曜日は自由行動というものだった。きちんとしたスケジュールをこなすことによって、選手たちは前向きに、常に新鮮な気持ちが維持できた。
当然のことながら、サッカーには基礎体力、走力、筋力、瞬発力、持久力などの各種トレーニングが必要だ。また個人技術のボールコントロール、いろんなキック、ヘディング、フェイント、パス、シュートなども必要だ。その向上をめざし、クラマーさんに教えられた多彩なマニュアルを、選手たちは連日競うようにこなした。
走力強化マニュアルの一例を挙げると、100メートルを16秒で走り、Uターンして1分かけて帰り、また16秒で走る。それを連続10回繰り返す。また走りながら前方回転したり体をひねったりする。週1回水曜日にはクロスカントリーのレースをこなすといった具合だった。
夕食後は各自が体育館でウェイト・トレーニング、マットワークなど特別メニューをこなした。見る見るうちに、みんな体つきまで、まさに戦う戦士の姿に変わっていった。
トレーニングの合間に、釜本(左)に話かけるクラマーさん
(提供:クラマーさん) |
◆実戦形式のトレーニング
戦術の研究も、攻守にわたって盛んにやられた。例えば、相手のいろんな攻撃に即応するため、守備の型にこだわることなく、マンツウマンからゾーンへの切り替え、また守備から攻撃に切り替える時のスピードなど、あらゆる場面を想定し実戦形式で何度も繰り返された。長沼監督は、こう述懐する。
「試合の中で、得点できそうなムード、ピンチになりそうなムード、そんな試合の流れを、いち早く全員が敏感にキャッチして、みんなが共通した感覚で戦うことが絶対に必要だ。そういった試合への取り組み方や精神的な面もトレーニングやミーティングを通して、しつこく強調した」
「厳しいスケジュールを、みんなよくこなしてくれた。オリンピック直前の3カ月は、非常に有意義なものだった。とくに釜本、山口、森ら若手の成長は目覚ましかった。日本でオリンピックがやられるのは、たぶん生涯で一度だろう。このチャンスに『日本のサッカー、ここに在り』を示さずしてどうする、というのが全員の思いだった」
毎週土曜日の練習試合は、実業団の強チーム、日立本社や三菱重工。大学チームの慶大、教育大、立大、中大、明大、日大、日体大、早大を招いて19試合をやり17勝2敗。得点121、失点10だった。
◆グラスホッパーに勝つ
6月30日に合宿を終えた日本代表は、7月17日ソ連、東欧、西ドイツ、スイス遠征に出発する。最後の仕上げの国際試合を経験するためだった。
当時のオリンピック出場チームは、アマチュアであることが絶対条件だった。そのためプロサッカーが盛んな西欧は弱く、プロがいないとされている東欧諸国が断然強かった。そのため、日本代表はソ連、ルーマニア、ハンガリー、チェコで1勝もあげられず2分6敗と惨憺たる成績だった。
チェコのプラハから西ドイツのフランクフルトに着いた空港には、クラマーさん一家が出迎えてくれていた。デュイスブルクのスポルト・シューレの主任コーチを辞めて、ドイツ協会(DFB)コーチに就任していたクラマーさんの案内で、日本代表はグリュンベルクのスポルト・シューレに泊まり、3試合をこなした。ドイツのアマチュア相手では、日本代表はさすがに強く2勝1分だった。
最終戦は、スイスのプロ1部のグラスホッパーが相手で、4−0(3−0)で勝つという大金星をあげた。コーチの岡野はいう。
「グラスホッパーは日本にとって因縁の相手だった。1936年ベルリン・オリンピックに参加した日本代表が帰途スイスに立ち寄り、初ナイターで1−16で大敗した。次は55年グラスホッパーが世界一周の途次、日本に立ち寄ったが後楽園で、日本選抜が1−7で負け、60年欧州遠征の日本代表がチューリッヒで4−1と3連敗していた。そして我々が4戦目に勝った。新聞に『スイスには、この日本代表に勝つチームはいない』と書かれ、大きな話題になった。グラスホッパーは、時代とともにだんだん強くなる日本の力のバロメーターのようなものだった」
◆つらい仕事、選手選考
オリンピックまであと1カ月。帰国した日本代表の長沼監督には、オリンピック出場選手選考というつらい仕事が待っていた。最高のメンバーを選ぶために誰かを入れ、誰かを外さなくてはならない。
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クラマーさんとの会話(25) 「才能ある選手を探す方法」(つづき)
中条 前回、試合の中でタレントを探すとおっしゃいましたが、もう少し具体的に。
クラマー 試合をやらせて、選手を観察するポイントは4つある。第1は、その選手がボールを持った時、相手のプレッシャーを受けながら何ができるか。第2は、味方がボールを持った時、チームのコンビネーションの中で、その選手がどんな動きをしているか。第3は、直接マークする相手がボールを持った時、その選手はどんなプレーをやっているか。第4は、相手チームにボールがある時、チームのコンビネーションの中で、その選手はどんな動きをしているか、だ。
中条 きちんと整理できて、非常に判りやすいですね。各ポイントごとに観察していけば数値化することもできますね。
クラマー この4ポイントは、サッカーの基本になる重要なことだ。だが、平均値がよくても駄目な場合がある。優れた一つを持っている選手が伸びることもある。例えば、この4ポイント以外に、得点をとる能力がある。日本全土からゴールがとれる選手をさがして、集中的にゴールをとるトレーニングをやることだ。
中条 釜本、杉山を鍛えたようにですか。
クラマー 統計によれば、得点の80%はPA(ペナルティエリア)内からのシュートで決まっている。残りの10−20%がPAの外かPK、オウンゴールその他だ。試合によっては90%がPA内のこともある。ところが、日本でのトレーニングの90%はPA外からのシュート練習をやっている。これは間違いだ。
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