第12部 「トヨタカップ」 日本で競うクラブ世界一
10.第10回記念大会の覇者はACミラン
第10回トヨタカップ(1989年)
ACミラン対ナシオナル・メデジン 1−0(延長)
1989年12月17日 国立競技場(東京) 観客 62,000人
得点 ACミラン: アルベリゴ・エバニ(118分)
主審 エリク・フレドリクソン(スウェーデン)
監督 ACミラン:アリゴ・サッキ
ナシオナル・メデジン:フランシスコ・マツラナ
MVP アルベリゴ・エバニ 背番号14(ACミラン)
◆ACミラン、20年ぶり通算2度目の世界一
相手に主導権を渡さない意識のより強いナシオナル・メデジンの奮闘により、試合は戦前の予想と違い両チーム無得点のまま3大会連続の延長戦に持ち込まれました。延長戦でも中盤における厳しいチェックは共に緩むことなく、またもやPK戦による決着かと思われはじめた矢先に試合はクライマックスを迎えました。
最後の望みを託されたボールは、DFコスタクルタからMFアンチェロッティを経てFWシモーネへと渡り、さらにファンバステンまで到達しました。テクニックに優れ、スピードとパワーも備えたエースストライカーの突進を阻止すべくナシオナルのDFエレラが必死の思いで伸ばした足に触れ、ファンバステンはペナルティ・エリア内に倒れましたが、判定はフリーキック。118分、これをMFアルベリゴ・エバニが巧みなキックでゴール左すみ決め、熾烈な戦いに終止符がうたれました。
なお、「オランダ・トリオ」の1人ルート・フリットは、右ひざ手術後のリハビリ中のため出場しませんでした。
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ACミラン優勝記念消印
(1989年12月17日付ミラノ局印) |
■ACミラン、オランダパワーで3度目のヨーロッパ制覇
−第34回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(1988‐89シーズン)−
準々決勝
1回戦(30チーム)を勝ち抜いた15チームに、前回優勝PSVアイントホーフェンを 加えた16チームによる2回戦を実施。準々決勝は2回戦の勝者8チームにより行われました。
ACミラン(イタリア)対ベルダー・ブレーメン(西ドイツ) 0−0、1−0
レアル・マドリード(スペイン)対PSVアイントホーフェン(オランダ)
1−1、2−1
ガラタサライ(トルコ)対ASモナコ(フランス)1−0、1−1
ステアウア・ブカレスト(ルーマニア) 対1FKイエーテボリ(スウェーデン)
0−1、5−1
◆ACミラン、2回戦と準々決勝で意外な苦戦
1988-89シーズンからセリエAの外国人選手枠が2人から3人に拡大したことからACミランは、「オランダ・トリオ」の残る1人、フランク・ライカールト(1987年9月のアヤックス退団騒動から、スペインのレアル・サラゴサにレンタル移籍中)をFCバルセロナと競合の末、獲得に成功しました。
このように万全の態勢で臨んだと思われたACミランでしたが、2回戦の対レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア)戦では、敗退寸前にまで追い込まれました。
第1戦(1988年10月26日・ホームのサンシ―ロ)、47分にストイコビッチに先制点を奪われ、同点に追い付きましたが1対1の引分け。
アウェイの第2戦(1988年11月9日・ベオグラード)では、サビチェビッチに先制された上、ビルディスが2度の警告により退場処分を受け、ピンチに陥りました。しかし、試合は濃霧を理由とした中止・再試合の決定がなされ、ACミランはこれに救われました。
翌日の再試合も、35分にファンバステンのゴールでやっと先手をとったものの、39分にストイコビッチにあっさりと同点ゴールを許してしまい、延長の末のPK戦を4対2で勝つという、際どいものでした。
準々決勝、オットー・レーハーゲル監督が率いるブレーメン戦も楽なものではありませんでした。第1戦(1989年3月1日・ブレーメン)を0対0で引き分け、第2戦(1989年3月15日・サンシ―ロ)での唯一の得点(32分ファンバステン)も、主審ジョージ・スミス(スコットランド)の微妙なPKの判定によるもので、判定を巡ってひと騒動が起きています。
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1回戦第2戦 ACミラン対レッドスター・ベオグラード
開催記念カバー
(試合途中で中止)
(1989年11月9日付記念消印・ベオグラード局) |
準決勝 ACミラン対レアル・マドリード 1−1、5−0
ステアウア・ブカレスト対ガラタサライ 4−0、1−1
◆ACミラン、レアルを粉砕
これまで体調が万全でないため、出場を避けた試合もあったフリットの復帰もあり、ACミランは、レアルとのホーム、サンシ―ロでの第2戦(1989年4月19日)で爆発的攻撃力を披露しました。アンチェロッティ(19分)、ライカールト(27分)、フリット(46分)、ファンバステン(49 分)、ドナドーニ(60分)の5ゴールは圧巻でした。 なお、フリットはこの試合で右ひざに痛みが走り、翌日手術を受けています。
◆ステアウア・ブカレスト快進撃
1回戦から準々決勝までのステアウアの戦いぶりは順調で、6試合5勝1敗、得点16、失点6の戦績でした。攻撃陣はラカトシュとハジを中心にドミトレスク、バリントと多彩でした。この勢いは準決勝でも続き、4対0、1対1で決勝に進みました。
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ルーマニアの英雄・ハジ
(2001年4月23日発行・ルーマニア) |
決勝
ACミラン対ステアウア・ブカレスト 4−0
1989年5月24日 カンプノウ(バルセロナ・スペイン) 観客 97,000人
得点 ACミラン: フリット(18、38分)、ファンバステン(28、46分)
監督 ACミラン:アリゴ・サッキ
ステアウア:ヨルダネスク
大会最多得点:マルコ・ファンバステン(ACミラン)9点
◆ACミラン、チーム力を誇示
得点したのはフリットとファンバステン(各2得点)でしたが、オランダ・トリオを含む11人が揃ったACミランのチーム力の凄さ(身体能力、正確な技術、創造性に満ちた試合展開が随所で発揮され、ステアウアは、まったく歯が立ちませんでした。
右ひざを手術して僅かひと月あまりで復帰し、先制点と4点目を記録したフリットの 活躍は驚異的でした。
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「ACミラン」優勝 特別記念消印
(1989年5月25日付・ミラノ局印) |
■ナシオナル・メデジンが南米王者に
−第30回リベルタドーレス・カップ(1989年) −
準々決勝
参加20チームを5グループに分けて1回戦(リーグ戦)を行い、各グループ1、2、3位の15チームに前回優勝のナシオナル・モンテビデオを加えた16チームによる2回戦(ノックダウン方式)を実施。準々決勝は、2回戦を勝ち抜いた8チームにより行われました。
ナシオナル・メデジン(コロンビア)対ミジョナリオス(コロンビア) 1−0、1−1
ダヌビオ(ウルグアイ)対コブレロア(チリ) 2−0、2−1
インテルナシオナルPA(ブラジル)対ECバイーア(ブラジル) 1−0、0−0
オリンピア(パラグアイ)対ソル・デ・アメリカ(パラグアイ) 2−0、4−4
準決勝
ナシオナル・メデジン対ダヌビオ 0−0、6−0
オリンピア対インテルナシオナルPA 0−1、3−2(PK5−3)
決勝
第1戦 オリンピア対ナシオナル・メデジン 2−0
1989年5月24日 ディフェンソール・デル・チャコ(アスンシオン・パラグアイ)
観衆 50,000人
得点 オリンピア:ボバディージャ(36分)、サナブリア(60分)
第2戦 ナシオナル・メデジン対オリンピア 2−0
1990年5月31日 エル・カンピン(ボゴタ・コロンビア) 観客 50,000人
得点 ナシオナル・メデジン:オウンゴール(46分)、ウスリャガ(64分)
優勝決定 PK:ナシオナル・メデジン 5−4 オリンピア
優勝監督 ナシオナル・メデジン:フランシスコ・マツラナ
第30回最多得点: アマリージャ(オリンピア)11点
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ナシオナル・メデジン
(切手表示はアトレティコ・ナシオナル)
<1982年ワールドカップ・スペイン大会記念切手12種中の1種>
(1982年6月21日発行・コロンビア) |
― ちょっと寄り道 ―
インテル13回目のスクデット獲得(1988-89シーズン)
イタリア・セリアAでは、ACミランは「オランダ・トリオ」獲得に成功しましたがこのシーズンは3位に終わり、優勝したのはインテルでした。1976年からユベントスを率いクラブに黄金期をもたらしたジョバンニ・トラパットーニを1986年に監督に招き、復活を目指していました。1988-89シーズンから、ローター・マテウスとアンドレアス・ブレーメ(共に前バイエルン・ミュンヘン所属)、さらに1982年以来セリエA各クラブでのプレイ経験を持つラモン・ディアス(アルゼンチン)も獲得し、8年ぶりにスクデットを奪還しました。
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インテル
セリエA 1988-89シーズン優勝記念切手
(1989年6月26日発行・イタリア) |
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