第10部 クラブ国際大会の拡がり
8.アルゼンチン勢が初の世界一
(1)第12回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(1966‐67シーズン)
◆セルティック、英国クラブ初のヨーロッパ制覇
予備予戦 (左側が勝者)
CDNAソフィア(ブルガリア)対スリエマ・ワンダラーズ(マルタ)
フォルベルツ・ベルリン(東ドイツ)対ウォーターフォード(アイルランド)
1回戦 (左側が勝者)
グラスゴー・セルティック(スコットランド)対FCチューリヒ(スイス)
ナント(フランス)対KRレイキャビク(アイスランド)
アトレティコ・マドリード(スペイン)対マルメ(スウェーデン)
ボイボディナ・ノビサド(ユーゴスラビア)対アドミラ・ウィーン(オーストリア)
リバプール(イングランド)対ペトロルル・プロイエスティ(ルーマニア)
アヤックス(オランダ)対ベシクタシュ(トルコ)
アンデルレヒト(ベルギー)対ハーカ(フィンランド)
デュクラ・プラハ(チェコスロバキア)対エスビェルグ(デンマーク)
リンフィールド(北アイルランド)対アリス・ボンネフォイエ(ルクセンブルク)
バレレンゲン(ノルウェー)(不戦勝)対17ネントリ・チラナ(アルバニア)(棄権)
グルニク・ザブジェ(ポーランド)対フォルベルツ・ベルリン
CDNAソフィア対オリンピアコス(ギリシャ)
1860ミュンヘン(西ドイツ)対アポエル・ニコシア(キプロス)
バシャシュ・ブタペスト(ハンガリー)対スポルティング・リスボン(ポルトガル)
インテル(イタリア)対トルぺド・モスクワ(ソ連)
2回戦
1回戦を勝ち抜いた15チームに前シーズンチャンピオン、レアル・マドリード(国名を表記)を加えた16チームで行われ、勝利チーム(左側)が準々決勝へ進みました。
グラスゴー・セルティック対ナント3−1、3−1
ボイボディナ・ノビサド対アトレティコ・マドリード 3−1、0−2、3−2
アヤックス対リバプール 5−1、2−2
デュクラ・プラハ対アンデルレヒト 4−1、2−1
CDNAソフィア対グルニク・ザブジェ 4−0、0−3
リンフィールド対バレレンゲン 4−1、1−1
レアル・マドリード(スペイン)対1860ミュンヘン 0−1、3−1
インテル対バシャシュ・ブタペスト 2−1、2−0
準々決勝
グラスゴー・セルティック対ボイボディナ・ノビサド 0−1、2−0
デュクラ・プラハ対アヤックス 1−1、2−1
CDNAソフィア対リンフィールド 2−2、1−0
インテル対レアル・マドリード 1−0、2−0
◆デュクラ・プラハ対アヤックス
1962年ワールドカップ・チリ大会でチェコスロバキアを決勝にまで導いたヨーゼ フ・マソプストは、アヤックス戦においてもフィールドを支配し、チームメイト、プルスカルとのコンビでアヤックスを下しました。敗れたアヤックスの監督はリヌス・ミケルスであり、彼のもとで成長しつつあったヨハン・クライフがいました。1947年4月25日生まれのクライフは、19歳でヨーロッパ・チャンピオンズ・カップにデビューし、2回戦のリバプールとの第2戦で2得点をあげています。
|
アヤックスのロゴマーク
<アヤックス記念切手帳>
(オランダ) |
準決勝
グラスゴー・セルティック対デュクラ・プラハ 3−1、0−0
インテル対CDNAソフィア 1−1、1−1、1−0
◆インテルと死闘を演じたCDNAソフィア
この大会8回目のブルガリア陸軍を母体とするCDNAソフィア(現CSKAソフィアの前身)は、インテルとアウェイでの第1戦をツァネフの同点ゴールで1−1と引き分けに持ち込みました。しかしホームの第2戦ではインテルのファケッティに決められ再び1−1で引き分け、勝利を逃しました。
第3戦はイタリアのボローニャで行われ、CDNAは0−1で敗れ、ブルガリア初の決勝進出を果たせませんでした。
|
CSKAソフィア創設60周年<1948ー2008>
記念小型シート
(2008年5月7日発行・ブルガリア) |
決勝
グラスゴー・セルティック対インテル 2−1
1967年5月25日 ナシオナル(リスボン・ポルトガル)観客 45,000人
得点 セルティック:ゲメル(63分)、チャルマース(84分)
インテル:マッツォーラ(6分PK)
監督 セルティック:ジョック・スタイン
インテル:エレニオ・エレラ
◆新しくなった優勝杯を授与されたセルティック
インテルの選手達は、準決勝対CDNAとの試合でスタミナを消耗しきっており、その上、要のルイス・スアレスまでが負傷により決勝のピッチに立つことが出来ませんでした。
しかし先制したのはインテルで、FWカッペリーニへのファウル(PK)をマッツォーラが決めたものでした。63分、得意のカウンター・アタックからセルティックのDFトミー・ゲメルが20mのシュートで同点に追い付きました。84分、決勝点を奪ったのはFWチャルマースで、彼はこの大会でセルティック最多の5得点を記録しています。
この大会から優勝杯が新しいものに変わり、高さ74cm、重さ8kgで銀製のトロフィーは、大きなとっ手の形状からビッグイヤー(Big-eras)と称されています。
なお、1956年にフランス「レキップ」紙から寄贈された初代優勝カップは、大会5連覇を達成したレアル・マドリードが永久保持することに1967年3月に決められました。
|
<新しくなった優勝杯>
ヨーロッパ・チャンピオンズ・カッップ
25周年記念
(1981年5月4日発行・モナコ)
|
(2)第8回リベルタド―レス・カップ(1967年)
◆ラシン、南米初制覇
1回戦
各グープ1位と2位が準決勝に進出しました。
グループ1: |
1位 |
クルゼイロ(ブラジル) |
|
2位 |
ウニベルシタリオ(ペルー) |
|
3位 |
スポルト・ボーイズ(ペルー) |
|
4位 |
デポルティボ・ガリシア(ベネズエラ) |
|
5位 |
デポルティボ・イタリア(ベネズエラ) |
グループ2: |
1位 |
ラシン・クラブ(アルゼンチン) |
|
2位 |
リバー・プレート(アルゼンチン) |
|
3位 |
インデペンデント・メデジン(コロンビア) |
|
4位 |
ボリバール(ボリビア) |
|
5位 |
インデペンデント・サンタフェ(コロンビア) |
|
6位 |
31 ド・オクトブル(ボリビア) |
グループ3: |
1位 |
ナシオナル・モンテビデオ(ウルグアイ) |
|
2位 |
コロコロ(チリ) |
|
3位 |
ウニベルシタリオ・カトリカ(チリ) |
|
4位 |
グアラニ・アスンシオン(パラグアイ) |
|
5位 |
バルセロナ(エクアドル) |
|
6位 |
エメレク(エクアドル) |
|
7位 |
セロ・ポルテ―ニョ(パラグアイ) |
準決勝
1回戦突破6チームに、前年チャンピオンのペニャロール(ウルグアイ)を加えて、これを2グループに分け、各グループ1位チームが決勝へ進みました。
グループ1: |
1位 |
ラシン・クラブ |
|
2位 |
ウニベルシタリオ |
|
3位 |
リバー・プレート |
|
4位 |
コロコロ |
|
プレイオフ ラシン・クラブ対ウニベルシタリオ 2−1 |
グループ2: |
1位 |
ナシオナル・モンテビデオ |
|
2位 |
クルゼイロ |
|
3位 |
ペニャロール |
決勝
第1戦 ラシン・クラブ対ナシオナル・モンテビデオ 0−0
1967年8月15日 モーツァルト・イ・クヨ
(アベジャネダ・ブエノスアイレス、アルゼンチン)
観客54,000人
第2戦 ナシオナル・モンテビデオ対ラシン・クラブ 0−0
1967年8月25日 センテナリオ(モンテビデオ・ウルグアイ ) 観客62,000人
第3戦(プレイオフ) ラシン・クラブ対ナシオナル・モンテビデオ 2−1
1997年8月29日 エスタディオ・ナシオナル(サンチャゴ・チリ) 観客25,000人
得点 ラシン:カルドソ、ラフォ
ナシオナル:エスパラゴ
監督 ラシン:ファン・ホセ・ピスッティ(Pizzuti)
ナシオナル: 不明
第8回最多得点:ラフォ(ラシン・クラブ) 14点
(3)第8回 インターコンチネンタル・カップ (1967年)
◆ラシン、世界初制覇
ペニャロール(1961・1966、ウルグアイ)、サントス(1962・1963、ブラジル)に続いて、ラシンが、アルゼンチンに初めての世界王者のタイトルをもたらしました。
第1戦
セルティック対ラシン・クラブ 1−0
1967年10月18日 ハムデン・パーク(グラスゴー・スコットランド) 観客103,000人
得点 セルティック: ビリー・マクニール(67分)
第2戦
ラシン・クラブ対セルティック 2−1
1967年11月1日 モーツァルト・イ・クヨ
(アベジャネダ・ブエノスアイレス、アルゼンチン)
観80,000人
得点 ラシン:ラフォ(32分)、カルデナス(48分)
注)「トヨタカップ公式プログラム」では、2点ともラフォの得点と記載。
セルティック:ゲメル(20分・PK)
第3戦(プレイオフ)
ラシン・クラブ対セルティック 1−0
1967年11月4日 センテナリオ(モンテビデオ・ウルグアイ ) 観客65,000人
得点 ラシン:カルデナス(55分)
監督 ラシン・クラブ:ファン・ホセ・ピスッティ(Pizzuti)
セルティック:ジョグ・スタイン(Stein)
◆過熱するピッチ上での争いとその背景
第1戦のアウェイを引き分け、ホームでの第2戦で勝つことを目論んだラシンでした が、敵將ビリー・マクニールにコーナーキックからヘッディングで押し込まれてしまい第2戦を迎えました。その試合前の練習中にスタンドから投げ入れられた瓶がセルティックのGKロニー・シンプソンの頭に当たり、プレイを出来ないアクシデントが起きています。異様な雰囲気のなかでラシンは先制されながらも2対1で逆転勝利し、1勝1敗に持ち込みました。当時は得点の多少にかかわらず勝ち点2が与えられるルールにより、ウルグアイのモンテビデオで第3戦が行われ、カルデナスの決勝ゴールにより、ラシンは世界一のタイトルを手にしました。
しかしながら、第3戦も史上まれなほどの多数の退場者を出しています。セルティックではボビー・レノックス、ジミー・ジョンストーン、ジョンヒューズ、パーティ・オールドとラシンのアルフレードとルージーの6人です。主審による試合のコントロールは限界に近付いていました。
例えば、セルティックの4人目の退場者パーティ・オールドのように、短いながらも試合終了までピッチ上に留まっていたことまで起きています。 なぜこのような荒れた試合が多くなってしまったのか、ワールドカップの影響が考えられます。1962年のチリ大会の1次リーグ、チリ対イタリア戦における両チームの入り乱れた反則行為の繰り返しは、「サンティアゴの戦争」とまで言われています。
続く1966年イングランド大会準々決勝の2試合、イングランド対アルゼンチン<1−0>、西ドイツ対ウルグアイ<4−0>では、アルゼンチンの主将アントニオ・ラティンが前半36分に退場処分を命じられ、ウルグアイは2人のプレイヤーが退場となりました。主審を務めたのが西ドイツ人とイングランド人だったことから南米勢は「主審の“目の敵”にされた」と強く反発しています。
このようなヨーロッパと南米の対立は、ホームアンドアウェイ制で行われるインターコンチネンタル・カップ大会では、より深刻なものとなり、次第に大会の運営に暗い影を落としていきます。
◆画像をクリックすると、拡大画像をご覧いただけます。
「手のひらの上のサッカー史」に対するご意見・ご感想は、 こちらから。 |