第9部 ヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグの魅力
5.第3回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ
◆レアル・マドリードが大会3連覇
1957-58シーズンに3年目を迎えた大会は活況を呈し、新たに北アイルランド、アイルランドに東ドイツも加わりました。レアル・マドリードが国内リーグ(1956−57)チャンピオンに返り咲いたためスペインからは2つ目のセビリア(国内2位)も参加したので、総参加チームは24となりました。
レアルは躍進著しいマンチェスター・ユナイテッドや、前大会決勝進出のフィオレンティ―ナを制してイタリア・チャンピオンとなったACミランを迎え撃つため、さらなる補強を怠りませんでした。
1954年ワールドカップで、ウルグアイ代表の守備の中心選手として活躍した、ホセ・サンタマリア(1929年7月31日生まれ・ナシオナル所属)を獲得し、3連覇を達成することが出来ました。
予備予選 ※左が1回戦進出チーム
セビリア(スペイン)対ベンフィカ(ポルトガル)
AGFオーフス(デンマーク)対グレナボン(北アイルランド)
バシャシュ・ブタペスト(ハンガリー)対CDNAソフィア(ブルガリア)
ビスムートKMS(東ドイツ)対グワルディア・ワルシャワ(ポーランド)
マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)対シャムロック・ローバース(アイルランド)
レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア)対スタート・デュドランジュ(ルクセンブルク)
グラスゴー・レンジャーズ(スコットランド)対サンテチエンヌ(フランス)
ACミラン(イタリア)対ラピッド・ウィーン(オーストリア)
1回戦
予備予選を突破した8チームに8チームが加わり、16チームで1回戦が行われ、勝った8チームが準々決勝へ進みました。
※左が準々決勝進出チーム
レアル・マドリード(スペイン)対ロイヤル・アントワープ(ベルギー)
セビリア対AGFオーフス
アヤックス(オランダ)対ビスムートKMS
バシャシュ・ブタペスト対ヤングボーイズ(スイス)
マンチェスター・ユナイテッド対デュクラ・プラハ(チェコスロバキア)
レッドスター・ベオグラード対ノルチェーピング(スウェーデン)
ボルシア・ドルトムント(西ドイツ)対CCAブカレスト(ルーマニア)
ACミラン対グラスゴー・レンジャーズ
準々決勝
レアル・マドリード対セビリア 8−0、2−2
バシャス・ブタペスト対アヤックス 2−2、4−0
マンチェスター・ユナイテッド対レッドスター・ベオグラード 2−1、3−3
ACミラン対ボルシア・ドルトムント 1−1、4−1
準決勝
レアル・マドリード対バシャシュ・ブタペスト 4−0、0−2
ACミラン 対マンチェスター・ユナイテッド 1−2、4−0
決勝
レアル・マドリード対ACミラン 延長3−2
1958年5月28日・ヘイゼル(ブリュッセル) 観客67,000人
得点 レアル:ディ・ステファノ(74分)、リアル(79分)、ヘント(107分)
ACミラン: スキアフィーノ(60分)、グリッロ(78分)
監督 レアル:カル二グリア
ACミラン:ビア―ニ
◆マンチェスター・ユナイテッドの悲劇
2度目の大会参加のマンチェスター・ユナイテッドは、準々決勝の相手レッドスター・ベオグラードとの第2戦を引き分けて準決勝進出を決めましたが、その帰途の途中で悲劇が起きました。
2月6日3時4分、給油のため立寄った雪のリーム空港(ミュンヘン)でチームの搭乗機エリザ・ベッタン号が離陸に失敗、選手8人が死亡(7人は即死、入院したダンカン・エドワーズは15日後に死亡)、バスビー監督と4人の選手が重傷を負い、後遺症により再びプレイ出来なくなり、チームは壊滅状態に陥りました。
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ダニー・ブランチフラワー
(負傷後引退)
(1966年5月14日発行・
イギリス) |
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リアム・ウェラン追悼切手
(死亡・アイルランド出身)
(2008年2月4日発行・
アイルランド) |
準決勝のACミラン戦には、たった3人のレギュラ―(GKハリー、FWグレッグ、デニス・バイオレット、DFビル・フォルケス)に、新メンバーを加え行われました。第1戦ホームのオールド・トラフォードでのゲームを2対1で勝利しましたが、アウェイでの第2戦は0対4で完敗、念願の決勝進出を果たせませんでした。
(ミュンヘンの悲劇がイングランド代表チームに与えた影響については、第3部12で取り上げています)
◆ACミランの躍進
ACミランの1950年代を支えたのは、1948年ロンドン・オリンピックで優勝したスウェーデンから加入した「グレ・ノ・リ(Gre-No-Li)」トリオでした。なかでもニルス・リードホルム(1922年生まれ)は、大型で空中戦に強く、足元のプレイも確実なオールラウンドプレイヤーとして、1949年にミラン入りし1961年まで活躍し、1950−51、54−55、56−57、58−59と4度のセリエA制覇に貢献しました。
1949年以来トリオを形成していたグンナー・グレンは1952年、グンナー・ノルダールは1955年にそれぞれミランを離れますが、1954年スイス・ワールドカップ直後にウルグアイのフアン・アルベルト・スキアフィーノ(19251年生まれ)を、同国ペニャロールから多額の移籍金を支払い獲得しました。
スキアフィーノは、ワールドカップ1950年大会決勝で、起死回生の同点ゴールを決め、ギジャの逆転ゴールをアシストし優勝。1954年大会準決勝では「マジック・マジャール」ハンガリーと対戦、延長の末2対4で敗れました。
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ACミラン躍進に貢献した
「グレ・ノ・リ」トリオ」
(右端:リードホルム)
ACミラン100周年記念カバー
(1999年9月20日発行・
サンマリノ) |
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ファン・アルベルト・
スキアフィーノ
2006W杯・ドイツ大会
(2003年10月31日発行・
ウルグアイ) |
〜 ちょっと寄り道 〜
FCバルセロナ「カンプ・ノウ スタジアム」竣工
レアル・マドリードのホームスタジアム「チャマルティン」の完成した1947年から10年後の1957年9月24日に、FCバルセロナの「カンプ・ノウ スタジアム」が竣工しました(起工式は1954年3月28日、旧スタジアムはレス・コルツ) 。
この落成セレモニーの際、バルサの公式応援歌「イムノ」も披露されています。
これにあわせて開催された「第3回スポーツ切手展の」記念カバーを掲げておきます。封筒左側にスタジアム、エンブレム、フラッグが描かれ、竣工日が表示されています。
バルセロナの1956−57シーズンの国内リーグ成績は3位、「ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ」登場まで今少しの位置につけていました。
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「カンプ・ノウ・
スタジアム竣工/
第3回スポーツ切手展開催」
記念カバー
(1957年9月24-28日
バルセロナ局印・スペイン) |
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