第9部 ヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグの魅力
3.レアル・マドリードの成長戦略
◆ディ・ステファノの獲得(1953年)
ヨーロッパ制覇をめざしていたレアル・マドリードですが、国内リーグでは1932−33シーズン以来チャンピオンの座から遠のいており、夢の実現は1943年に同クラブの会長についたサンティアゴ・ベルナベウの手腕に託されていました。
1926年7月4日、アルゼンチンのブエノスアイレスで生まれたディ・ステファノ選手は、1943年から強豪「リバー・プレート」の中心選手として活躍していましたが、6年後の1949年、FIFAが1954年まで認めなかったコロンビアの新興・独立プロリーグ「ディマヨ―ル」に所属するクラブ「ミジョナリナス」(本拠地ボゴタ・1939年設立)に移りました。
理由はアルゼンチンやウルグアイ国内でサッカー選手の低賃金に抗議するストライキが発生し、アルゼンチンサッカー協会がプロ選手のプレイを禁止、母国内でプレイする場を失ったためでした。結局、ディ・ステファノは「ミジョナリオス」で4年間を過ごし、この間に249試合、249ゴールという驚異的記録を残しました。
なお、アルゼンチンは、1950年ワールドカップ・ブラジル大会に地域予選エントリー後、棄権しました。理由はブラジル協会との意見の違いとされていますが、代表チームの戦力を整えるのが困難で、大会で優勝する自信がなかったのが真実のようです。
◆レアルとバルサによる争奪戦
1952年、レアル・マドリードのクラブ創立50周年を記念する試合に「ミジョナリオス」も招待され、「ヌエボ・チャマルティン・スタジアム」(1955年1月4日、「サンティアゴ・ベルナベウ」と改称)で2試合が行われ、ディ・ステファノは2得点ずつ計4得点と活躍。
ベルナベウ会長のお眼鏡にかなったのはいうまでもありませんが、当時国内リーグの最有力チーム「FCバルセロナ」のスカウトも、ステファノの才能を見逃すはずはなく、「レアル」と「バルサ」の間で壮絶な獲得合戦が始まりました。
争奪戦の最終段階で、バルサ側がアルゼンチン時代の所属「リバー・プレート」から移籍合意を得、レアルは「ミジョナリオス」にアプローチし、移籍合意を取り付け、「2つのYES」の存在が明らかになりました。
両チームはお互いの「合意」を振りかざし、激論が延々と続きました。このとき示されたスペインサッカー協会からの審判は「ステファノは両クラブに所続するものとし、同選手は、レアルで先ずプレイし、次にバルサでプレイする」という奇妙なもので、また時間は過ぎていきました。
最終的には、バルサが「リバー・プレート」に支払った額(550万ペセタと伝えれている)をレアルがバルサに支払うことで、ディ・ステファノのレアル入りが決定しました。
なお、ディ・ステファノ選手は、2014年ブラジル・ワールドカップの最中の7月7日に88歳で亡くなり、7月9日の準決勝アルゼンチン対オランダ戦の開始前に、両軍選手及び観客により黙祷が捧げられました。
|
|
ディ・ステファノ |
切手裏面略歴 |
<世界のスーパースター
イギリスのスポーツ専門誌「ワールドスポーツ」選定>
(1970年5月11日発行・ニカラグア) |
|
「FCバルセロナ」
創立100周年記念初日カバー
(1999年3月11日発行・スペイン) |
◆レアル、国内リーグ連覇
ディ・ステファノを獲得したレアルは、ホセ・ビジャロンガ監督の下、1953‐54、1954−55シーズンのリーガ・エスパニューラの王座につき、念願のヨーロッパ制覇に向けて走り出しました。
1953年、レアルは、スペインの「ラシン・サンタンデ―ル」で1軍に昇格したばかりの俊足のフランシスコ・ヘント(1933年生まれ)を獲得しました。ヘントの才能に着目、他クラブへのレンタル移籍予定を変更し、チームに留まらせるよう進言したのはディ・ステファノで、しかもヘントを活かすため、1954年には、アルゼンチン出身で「ナシオナル・モンテビデオ」(ウルグアイ)でプレイしていたFWエクトル・リアルの獲得をチームに働きかけ、実現させたと伝えられています。
このように、ステファノは自分自身のプレイでチームを支えるだけでなく、チームづくりにも貢献、レアル栄光の時代は幕を開けます。
◆画像をクリックすると、拡大画像をご覧いただけます。
「手のひらの上のサッカー史」に対するご意見・ご感想は、 こちらから。 |