第9部 ヨーロッパ・チャンピオンズ・リーグの魅力
6.第4回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ
◆プシュカシュのレアル加入
FIFAによる2年間のプレイ禁止を受けていたプシュカシュは、その後15カ月に短縮され、1958年7月でこの処分を解かれ、第4回ヨーロッパチャンピオンズ・カップの1958−59シーズンよりレアル・マドリードに加入。このとき彼は31歳になっていました。ディ・ステファノとともに活躍し、チームは4連覇を成し遂げました。
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1954年ワールド杯決勝戦後、
握手するプシュカシュ(手前)と
フリッツ・バルター
(写真絵ハガキ・西ドイツ) |
予備予選
ヨーロッパチャンピオンズ・カップは、シーズン4年目を迎え、さらに参加クラブ総数は28チーム(26ヵ国)に増えました。予備予選は24チームで争われることになっていましたが、オリンピアコス(ギリシャ)はベシクタシュ(トルコ)との対戦を望まず棄権。マンチェスター・ユナイテッドは、前年の航空機事故を考慮し、特別措置で招かれましたが、イングランドフットボール・リーグの拒否により参加を辞退しました。
※左側が勝利チーム (*は不戦勝)
*ベシクタシュ(トルコ)対オリンピアコス(ギリシャ)
ビエナーSK(スイス)対ユベントス(イタリア)
デュクラ・プラハ(チェコスロバキア)対ディナモ・ザグレブ(ユーゴスラビア)
シャルケ04(西ドイツ)対KBコペンハーゲン(デンマーク)
アトレティコ・マドリード(スペイン)対ドラム・コンドラ(アイルランド)
ビスムート・カール・マスクス・シュタット(東ドイツ)対 ペトロルルプロイェスティ(ルーマニア)
IFKイエーテボリ(スウェーデン)対ジュネーゼ・エシュ(ベルギー)
ポロニア・ビトム(ポーランド)対MTKブタペスト(ハンガリー)
スポルティング・リスボン(ポルトガル)対DOSユトレヒト(オランダ)
*ヤングボーイズ(スイス)対マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)
スタンダール・リエージュ(ベルギー)対ハート・オブ・ミドロウシャン(スコットランド)
スタード・ラーンス(フランス)対アーズ(北アイルランド)
1回戦
予備予選を突破した12チームに4チームが加わり、16チームで1回戦が行われ、勝利した8チーム(左)が準々決勝へ進みました。
レアル・マドリード(スペイン)対ベシクタシュ
ビエナーSK対デュクラ・プラハ
シャルケ04対ウォルバーハンプトン・ワンダラーズ(イングランド)
アトレティコ・マドリード対CDNAソフィア(ブルガリア)
ヤングボーイズ対MTKブタペスト
ビスムート・カール・マルクス・シュタット対IFKイエーテボリ
スタンダール・リエージュ対スポルティング・リスボン
スタード・ラーンス対HJKヘルシンキ(フィンランド)
準々決勝
レアル・マドリード対ビエナーSK 0-0、7-1
アトレティコ・マドリード対シャルケ04 3-0、1-1
ヤングボーイズ対ビスムート・カール・マルクス・シュタット 2-2、0−0、2−1
スタード・ラーンス対スタンダール・リエージュ 0−2、3−0
準決勝
レアル・マドリード対アトレティコ・マドリード 2−0、0−1、2−1
スタード・ラーンス対ヤングボーイズ 0−1、3−0
◆マドリード対決実現
準決勝では、マドリードを本拠地とするチーム同士の対決となりました。
はじめてこの大会に出場したアトレティコ・マドリードは、ワールドカップ・スウェーデン大会で5得点をあげ、ブラジル初優勝に貢献した頑強なFWババ(Vava)を同大会後バスコ・ダ・ガマから獲得しました。期待に応えババは、このシーズン8得点をあげています。
レアルとアトレティコの戦いは第3戦までもつれ込みました。第1戦(ベルナベウ)は、アトレティコがチュソの得点で先制、しかしディ・ステファノが同点、プシュカシュがPKを決め、2対1でレアルが先勝。中立地サラトガ(サラゴサ)での第3戦でも、ディ・ステファノとプシュカスの得点により2対1で勝ちレアルが決勝に進出しました。
決勝
レアル・マドリード対スタード・ラーンス 2−0
1959年6月3日・ネッカー(シュツットガルト)、観客80,000人
得点 レアル:マテオス(1分)、ディ・ステファノ(47分)
監督
レアル:カルニグリア
ラ―ンス:アルベール・パトゥ
◆スウェーデンW杯の得点王フォンテーヌ
フランスはワールドカップ・スウェーデン大会で3位を獲得。これに貢献したのがジュスト・フォンテーヌ(Just Fontaine・ラ―ンス所属・モロッコのマラケシュ生まれ)でした。全6試合に出場し13ゴールをあげ、大会得点王に輝きました。現在でもこの1大会最多得点記録は破られていませんが、この偉大な記録達成には、レイモン・コパ(レアル所属、ポーランドからの移民)からの数多くの巧みなパスやアシストがあったとされています。
第1回大会(1955‐56シーズン)以来2度目の決勝対決では、この両選手が敵味方に分かれて戦いましたが、ラーンスはコパの古巣でもありました。(第9部4参照) ラーンスはレアルに敗れ、またも準優勝に終わりましたが、フォンテーヌは10得点を記録し、このシーズンの得点王になっています。
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ジュスト・フォンテ―ヌ
1958年ワールドカップ得点王
(1997年10月1日発行・リベリア) |
なお、決勝戦にプシュカシュの出番はありませんでした。アルゼンチン出身のレアルの監督カル二グリアはディ・ステファノ中心の試合運びを行ったと評されました。これが原因でしょうか、カルニグリア監督の方が4連覇達成後、解任されてしまいました。プシュカシュはディ・ステファノとの役割分担をこなし、レアル入団当初の契約期間は4年間でしたが、1967シーズン(40歳)まで所属し、活躍し続けました。
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