第10部 クラブ国際大会の拡がり
2.南米ペニャロールが世界一に
(1)第6回ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(1960‐61シーズン)
◆伏兵ベンフィカがヨーロッパ王者に
1955年にスタートした「ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ」創設以来、5連覇を成し遂げたレアル・マドリードを倒すクラブはどこか? その筆頭候補と目されていたのはFCバルセロナでした。そして筋書き通りに進んでいましたが、栄冠にたどりついたのはベンフィカ・リスボンでした。
予備予選 (左側が勝者 *は不戦勝チーム)
ベンフィカ(ポルトガル)対ハート・オブ・ミドロウシャン(スコットランド)
ウィシュティ・ドーシャ(ハンガリー)対レッドスター・ベオグラード(ユーゴスラビア)
フレドリクスタット(ノルウェー)対アヤックス(オランダ)
AGFオーフス(デンマーク)対レギヤ・ワルシャワ(ポーランド)
CDNAソフィア(ブルガリア)対ユベントス(イタリア)
マルメ(スウェーデン)対HJKヘルシンキ(フィンランド)
*ビスムート・カール・マルクス・シュタット(東ドイツ)対グレナボン(北アイルランド)
ラピッド・ウィーン(オーストリア)対ベシク・タシュ(トルコ)
ヤングボーイズ(スイス)対リメリックFC(アイルランド)
スタード・ラ―ンス(フランス)対ジュネーゼ・エセ(ルクセンブルク)
スパルタ・クラロベ(チェコスロバキア)対CCAブカレスト(第2戦棄権)
FCバルセロナ(スペイン)対リエーゼ(ベルギー)
1回戦
予備予選を勝ち抜いた12チームに4チーム(国名を表記)を加えた16チームで行われ、勝利チーム(左側)が準々決勝へ進みました。
ベンフィカ対ウィペシュティ・ドージャ 6−2、1−2
AGFオーフス対フレリスク 3−0、1−0
マルメ対CDNAソフィア 1−0、1−1
ラピッド・ウィーン対ビスムート・カール・マルクス・シュタット 3−1、0−2、1−0
ハンブルガーSV(西ドイツ)対ヤングボーイズ 5−0、3−3、
バーンリ−(イングランド)対スタード・ラ―ンス 2−0、2−3
スパルタク・クラロベ対パナシナイコス 1−0、0−0
FCバルセロナ対レアル・マドリード(スペイン) 2−2、2−1
◆バルサ、レアルを下す
バルサに、前1959-60シーズン準決勝でレアルに敗れた無念を晴らす機会が早くも2回戦で訪れました。第1戦(ベルナベウ)を2-2で引き分けたバルサは、本拠地カンプ・ノウでの第2戦(1960年11月23日)でベルヘスとエバリスト(ブラジル人)が得点し、レアルのカナーリオに1点を与えたものの2対1で勝利し、打倒レアルを果たしました。
準々決勝
ベンフィカ対AGFオーフス 3−1、4−1
ラピッド・ウィーン対マルメ 2−0、2−0
ハンブルガーSV対バーンリ− 1−3、4−1
FCバルセロナ対スパルタク・クラロベ 4−0、1−1
準決勝
ベンフィカ対ラピドウィーン 3−0、1−1
FCバルセロナ対ハンブルガーSV 1−0、1−2、1−0
◆バルサ、ハンブルガーSVに苦戦
準決勝のバルサの相手は、1回戦から登場し4試合で13得点を記録したハンブルガーSVでした。同チームにはウーベ・ゼーラーがいました。1953年に入団、17歳で西ドイツ代表入りし、1958年ワールドカップ・スウェーデン大会に5試合出場し2得点をあげ、後に「ドイツ魂の権化」の異名を与えられたプレイヤーです。
バルサは本拠地カンプ・ノウで、1−0で勝ちましたが、敵地では2点のリードを許す苦しい展開でした。試合終了寸前のコチシュの得点に救われ2試合合計スコア2−2となり中立地ブリュッセルで第3戦が行われました。この試合をエバリストの得点で1−0と勝利し、初の決勝進出を決めました。
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準決勝対戦記念カード
(1961年4月26日ハンブルク局印
西ドイツ) |
決勝
ベンフィカ対FCバルセロナ 3−2
1961年5月31日 バンクドルフ(ベルン・スイス) 観客 26,732人
得点 ベンフィカ: ジョビ・アグアス(31分)、オウンゴール(32分)
マリオ・コルナ(55分)
FCバルセロナ: コチシュ(21分)、チボール(75分)
監督 ベンフィカ:ベラ・グットマン(ハンガリー人)
FCバルセロナ:オリサオラ
(レアルを下した時の監督プロチッチに代わり就任)
◆バルサ痛恨の逆転負け
ベンフィカは決勝前まで8試合で23点をあげ、バルサの17点を上回っていましたが、ベンフィカ優勢の声は多くありませんでした。この大会過去5回の、ポルトガル勢の戦績は1回戦敗退4度、2回戦進出1度だけでしたから、無理からぬことでした。
FCバルセロナは、コチシュが先制点を奪いますが、GKアントニオ・ラマジェッツ(37歳)の対応のまずさがからみ3点を奪われ、リードされてしまいました。それでもチボールのゴールで反撃を開始し、スアレス、コチシュ等のシュート4、5本が続けて放たれますが、ゴールポストに嫌われる不運(ベルンの呪い・<注1>)に見舞われ試合終了。
バルサが次に大会決勝の舞台に上がったのは1986年、25年も経っていました。悲願のヨーロッパ・チャンピオンに到達したのは1992年、なんと第37回大会のことでした。
<注1>1954年ワールドカップ・スイス大会の決勝で西ドイツに敗れた“マジック・マジャール”の主力であったコチシュ、チボールにとっては、バンクドルフ・スタジアムは鬼門ともいえる場所でした。先制しながら逆転負けを喫した試合展開、そしてスコアまで2−3と7年前と同一だったことから、“ベルンの呪いの再現”といわれました。
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ベンフィカ クラブ創設100周年記念<1904−2004年>
(2005年11月25日発行・ポルトガル) |
(2)第2回リベルタドーレス・カップ(1961年)
◆ペニャロールが南米2連覇
前年世界一を逃したペニャロールでしたが、スペンサー(エクアドル人)を軸にサシア、クビジャなど(1962年ワールドカップ・チリ大会のウルガイ代表)を揃え、まず南米2連覇を達成、再度世界一への挑戦権を得ました。
1回戦
インデペンデント・サンタフェ(コロンビア)対バルセロナ(エクアドル)2−2、3−0
準々決勝
ペニャロール(ウルグアイ)対ウニベルシタリオ(ペルー) 5−0、0−2
オリンピア(パラグアイ)コロコロ(チリ)5−2、1−2
インデペンデント・サンタフェ対ホルへ・ウィルステル・マン(ボリビア)1−0、2−3
パルメイラス(ブラジル)対インディペンディエンテ(アルゼンチン)2−0、1−0
準決勝
ペニャロール対オリンピア 3−1、2−1
パルメイラス対インデペンデント・サンタフェ 4−1、2−2
決勝
第1戦 ペニャロール対パルメイラス 1−0
1961年6月9日 センテナリオ(モンテビデオ・ウルグアイ)観客50,000人
得点 ペニャロール:アルベルト・スペンサー
第2戦 パルメイラス対ペニャロール 1−1
1961年6月11日 パカエンブー(サンパウロ・ブラジル)観客40,000人
得点 パルメイラス:ナルド
ペニャロール:サシア
監督 ペニャロール:ロベルト・スカローネ
パルメイラス:詳細不明
(1960年タッサ・ブラジル優勝時はOsvaldo randao監督)
大会最多得点:スペンサー、サシア、クビジャ(いずれもペニャロール)各3点
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パルメイラス
(2001年8月26日発行・ブラジル) |
(3)第2回 インターコンチネンタル・カップ(1961年)
◆ペニャロールがクラブ世界一に
ペニャロールにとって2度目の世界一への挑戦でした。1勝1敗後、当時得失点差ルールは無く、第3戦(プレイオフ)は第2戦の行われた場所で開催するルールに基づき、再びセンテナリオ・モンテビデオで行われ、ペニャロールが南米初のクラブ世界一を手にしました。
第1戦
ベンフィカ対ペニャロール 1−0
1961年9月4日 エスタディオ・ダ・ルス(リスボン・ポルトガル) 観客 50,000人
得点 ベンフィカ:コルナ(60分)
第2戦
ペニャロール対ベンフィカ 5−0
1961年9月17日 センテナリオ(モンテビデオ・ウルグアイ) 観客 56,000人
得点 ペニャロール:サシア(10分)、ホヤ(18、28分)、スペンサー(42、60分)
第3戦(プレイオフ)
ペニャロール対ベンフィカ 2−1
1961年9月19日 センテナリオ 観客 62,000人
得点 ペニャロール:サシア(6分、41分)
ベンフィカ:エウゼビオ(35分)
監督 ペニャロール:ロベルト:スカローネ
ベンフィカ:ベラ・グットマン
◆エウゼビオ、クラブ世界大会デビュー戦で初得点
1942年1月25日、モザンビークで生まれたエウゼビオは、スポルティング・ロレンソ・マルケスから1960年12月、18歳でベンフィカに移籍しました。
1961年5月23日、ポルトガル・カップ、セトゥバルとの試合で公式戦デビューしたばかりでしたので、5月31日のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ決勝戦の出番はありませんでした。それから3カ月経った9月19日のインターコンチネンタル・カップの覇者を決めるプレイオフという大舞台で “とび級”起用され、チーム唯一の得点を決めました。なお、ベンフィカのマリオ・コルナもモザンビーク出身で、7歳年上の彼は、若いエウゼビオがチームに融け込む手助けをしたと伝えられます。
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エウゼビオ追悼記念切手2種 (2014年5月1日発行) |
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