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■ 手のひらの上のサッカー史
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第7部
W杯、世紀末から新世紀へ

1.第16回W杯フランス大会 @

2.第16回W杯フランス大会 A

3.第16回W杯フランス大会 B

4.第16回W杯フランス大会 C

5.第17回W杯韓国/日本大会 @

6.第17回W杯韓国/日本大会 A

7.第17回W杯韓国/日本大会 B

8.第17回W杯韓国/日本大会 C

9.第17回W杯韓国/日本大会 D

10.第17回W杯韓国/日本大会 E

11.第17回W杯韓国/日本大会 F

12.第17回W杯韓国/日本大会 G

13.第18回W杯ドイツ大会 @

14.第18回W杯ドイツ大会 A

15.第18回W杯ドイツ大会 B

16.第18回W杯ドイツ大会 C

17.第18回W杯ドイツ大会 D

18.第19回W杯南アフリカ大会 @

19.第19回W杯南アフリカ大会 A

20.第19回W杯南アフリカ大会 B

21.第19回W杯
        南アフリカ大会 C

 

小堀 俊一 (こほり・しゅんいち)
1941年生まれ。 
フットボール・フィラテリスト、ビバ!サッカー研究会会員。
40年あまり前から、サッカー郵趣品(切手・はがき・封筒・記念消印などの郵便物資料)を収集し、楽しみながら世界のサッカーを学び続けています。
著書:「サッカー百科展」(1992年・大修館書店)、「サッカースタンプスタジアム」 (2002年・ 日本郵趣出版)


第7部 ワールドカップ、世紀末から新世紀へ(1998〜2010年)
21.第19回ワールドカップ・南アフリカ大会 (2010) C
    ― 初のアフリカ大陸開催 ―

◆ 決勝

◇ スペイン対オランダ <延長1対0 >
   <サッカーシティ/ヨハネスブルグ・7月11日>

 ともに初優勝を目指す決勝戦でした。準決勝までの6試合での得点はオランダ12、スペイン7、失点はそれぞれ5と2でした。
 立ち上がり5分、スペインがシャビの右からの直接FKをS.ラモスが頭で合わせますがGKステケレンブルフに防がれ、12分にもビジャの左足ボレーシュートは枠を外れ、開始早々の決定機を得点に結びつけることが出来ませんでした。
 これまで攻撃的に戦ってきたオランダでしたが、スペインのパスサッカーによる失点を恐れたのか、より、守備的布陣をしき、激しく相手に当たり、奪取したボールは素早く最終ラインの背後に出し、抜群のスピードを誇るロッベンを活かす戦法でした。
 オランダは前半終了直前の46分、スペインディフェンス陣の一瞬の隙をついてロッベンが侵入、左足でシュートしましたが、GKに弾き出されました。
 62分、スナイデルからのスルーパスにロッベンが抜け出し放ったシュートは身体を左に倒したGKカシージャスの右足にブロックされてしまいました。
 スペインの攻撃陣は繰り返しスペインのゴールへ迫ります。69分、ヘススナバスの右クロスからのこぼれ球をビジャがシュートしますが相手に当たり枠の外へ。77分シャビの左CKをS.ラモスが頭で合わせますが、これも枠外へと飛び去って行きました。
 オランダに3度目の決定機が訪れたのは83分のことでした。ファンペルシ―が頭で落としたボールにロッベンが走り込み、再びカシージャスと1対1となります。今度はシュートを打たずにGKをかわそうと試みましたが、意図を読まれて防がれてしまいました。
  激しい攻防が繰り返されましたが、両チーム無得点で試合は延長に突入しました。オランダは、95分セスク、99分シャビに立て続けにペナルティエリアに侵入されるピンチを迎えました。そして109分、最終ラインを抜け出したイニエスタをハイティンガが倒してしまい、2枚目のイエローカードを受け退場させられてしまいます。
 終了間際の116分、フェルナンドトーレスが中央に送り、相手クリアを拾ったセスクが右のイニエスタへパス。ワントラップして右足で豪快に決めました。
 ワールドカップ史上8番目の優勝チームになったスペインは10月21日、エンボスされた輝く星とFIFAトロフィを描いた切手を採り入れた優勝記念小型シートを発行しました。

初優勝記念小型シート
(2010年10月21日発行・
スペイン)

スペイン初優勝記念
初日カード
(マドリード局・
特別記念消印付)

 

第7部(1998〜2010年)のまとめ

1.ゼップ・ブラッターの時代

◆ ブラッター会長の長期政権化
  1998年6月8日のFIFA総会で会長に就任したのはゼップ・ブラッターでした。前会長アベランジェ自身の影響力をFIFA内部に残す目論見から誕生した経緯からヨーロッパ勢の反発も多く、南米やアジア、アフリカの支持を取り付けることが重要でした。
(就任後の個々の展開は都度伝えてきたので詳細は省略します。)

◇ 初の共同開催の遂行
 FIFA内部の権力争いにより生じたワールドカップ初の2002年日韓共同開催を、困難に直面しながら成し遂げました。
 この大会1年ほど前の2001年5月17日に確定したISL社の倒産を機に、権力闘争は激化の一途をたどりました。
 2002年5月29日の会長選を前に、FIFA事務総長ゼネルフィンがブラッター会長の不公正な会計操作を告発する報告書提出。FIFA理事24人(5人の副会長を含む)が資金流用疑惑でブラッター会長をチューリヒ検察庁に告発するなど内紛は頂点に達しました。
 しかしながら、会長選は139票対56票と対立候補イッサ・ハヤトウに圧勝し2期目の続投が決まり、この選挙結果を背景に同会長によるFIFA運営は安定化に向かいました。
(『第7部6 ◆ISLの破綻とFIFAの対応』、『第7部7 ◆FIFA会長選挙』の項を参照下さい)

◇ 「アフリカでワールドカップを開催」を実現
 途中紆余曲折はありましたが、2004年のFIFA理事会で「2010年大会の南アフリカ開催」を決定、「ワールドカップをアフリカで開催する」という自身の公約を果たし、これを成功させました。
(ワールドカップ開催地選びに「大陸持ち回り制」という方策を用い、「アフリカ開催(2010年)」と「南米開催(2014年)」を取り付けた後この制度をあっさり廃止するなど、ブラッターは、原理原則にとらわれず、
「FIFAの都合で如何様にでも変更することがある」ことを改めて知らしめました。)

◇ FIFA収入の拡大と賞金額増
 2014年ブラジル大会の賞金総額が5億7600万ドルと2010年大会比37%増と発表されました。これまでの推移をみますと驚異的な右肩上がりであり、このような額を支払える収入増があることを意味します。
  2002年大会 1億5400万ドル、   (−)
  2006年大会、2億6100万ドル    (169%)
  2010年大会 4億2000万ドル    (272%)
  2014年大会 5億7600万ドル    (374%)
  注:(  )は2002年比

  この背景には、以下の2つのことなどが考えられます。
1)『第7部6 ◆暴騰した放送権料と難航した契約交渉』で触れたように、1996年7月に導入された入札制度実施により、一挙に放映権収入は10倍(1998年:1億600万ドル、2002年:10億4000万ドル)にもなり、その後も大会を追うごとに増え、2010年大会では27億万ドルに達し、それぞれの15%程度が賞金に充てられているだろうこと。
2)ISLやキルヒの倒産により、FIFAも損失を被り、苦境に立たされたが、この機に乗じし、「マーケティング権」や「放映権」を自らコントロール可能にしたこと。
(FIFA収入の6割弱を占めるまでになった放映権料については、すでにこれを負担する側の限界を超えており、いずれバブルは崩壊すると言われ続けています。 FIFAの的確な判断により異常な暴騰が沈静化することで解決出来る問題と考えます。)

◇ 前会長アベランジェ・負の遺産問題
  FIFAは2012年7月12日に、前会長ジョアン・アベランジェと前理事リカルド・テイシェイラが、1990年代にFIFAのマーケティング代理店ISL社(2001年に倒産)から賄賂を受け取っていたことを示す検察当局の文書を公表しました。
 この問題に関し、ブラッター会長自身は、「これらの金銭授受があったことを黙認していた」ことを認め、「当時は必要経費と認められていた」としています。(2012年7月12日付・読売新聞夕刊・時事発)
  2012年3月にテイシェイラはブラジルサッカー連盟会長と2014年ワールドカップ・ブラジル大会組織委員会会長を辞任しました。この時点でFIFA名誉会長の座にあったジョアン・アベランジェは、「2012年4月18日に名誉会長を辞任した」とFIFA倫理委員会が4月30日に「ISLに関する報告書」で明らかにしました。
 同倫理委は、「ブラッター会長自身が、ISL社から賄賂を受け取ったことを示す根拠はなかったとした」と報じられています。(2013年5月1日付読売新聞夕刊・時事発)
 また、倫理委員会は「FIFAが倫理規定を設けたのが、ISL倒産後の2004年であることから、(アベランジェ氏らの)法的責任は問えない」と結論づけられました。
  このように、アベランジェがサッカー界の公職から退いたことで、跡を引き継いだブラッター自身の最大の問題に一定の解決がはかれたと考えます。
  このことなどにより、ブラッター政権は当初予想されていた以上の長期にわたるものになっています。

2.ワールドカップの新たな展開

◆本大会出場枠の拡大
 1998年大会から、本大会出場枠が24から32チームに増加、これにより、1大会あたりの初出場チーム誕生の可能性は高まりました。
<1998〜2010年大会ごとの初出場国>
1998年大会: クロアチア、ジャマイカ、南アフリカ、日本
2002年大会: スロベニア、エクアドル、セネガル、中国
2006年大会: ウクライナ、トリニダード・トバゴ、トーゴ、
ガーナ、アンゴラ、コートジボワール
2010年大会: スロバキア

1998年大会日本初出場決定 
<20世紀デザイン切手シリーズ・
第17集>
(2000年12月12日発行・日本)

◆ ワールドカップ優勝国数の増加
 6カ国目の優勝国・アルゼンチンが加わった1978年以来20年経った1998年に7カ国目のフランス、2010年に8カ国目のスペインとヨーロッパ勢が加わりました。⇒次もヨーロッパからなのだろうか?
 この間にブラジル(2002・5度目)、イタリア(2006・3度目)が優勝回数を1つずつ増やしました。

フランスの初優勝記念カバー
(1998年年7月12日発行・
フランス)

 


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