6月27日(火)
アフリカのサッカーを考える
ブラジル 3対0 ガーナ (ドルトムント)
★ドイツで新聞を買う
フランクフルトのペンションを本拠地に列車で各地の試合へ出かける。中央駅構内の書店で新聞を買う。それが日課である。
まず「ビルト」を買う。品のよくない新聞で、かつて列車の中で広げていたら、隣に座っていた紳士から「そういう新聞は人前で読むものではない」と注意されたことがある。しかし、サッカーの記事は見やすく整理されている。文章のドイツ語は、どうせ理解できないので見やすいのがいい。ワールドカップのページだけ抜き出し、品の悪い部分は捨てて、紳士に注意されないようにしている。
朝日新聞と日本経済新聞はロンドンで印刷されている衛星国際版を買うことができる。大会が始まってからは、日本人が増えたためか、売り切れで買い損なうことも多い。
英語の新聞は、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンを買う。ニューヨーク・タイムズ発行で欧州版はフランクフルトで印刷されている。簡潔にまとめられていて、英語が分かりやすいので助かる。
そのほかに、ときどき「タイムズ」の国際版を買う。英国の大衆紙にはサッカーの記事は多いが、スター選手のゴシップのたぐいは参考にならないし、記事量が多くて読みきれない。それで高級紙を買うことにしている。高級紙といっても、現在の「タイムズ」は、タブロイド判でカラー写真もたくさん使って読みやすく編集されている。
★ガーナについての記事
ブラジル対ガーナの試合当日の27日付「タイムズ」に、両国のサッカーの因縁についての記事が載っていた。
ガーナは英国の植民地だったが、1960年代にブラジルのサッカーへの関心が高くなった。「ペレが断然、人気プレーヤーだった。それはペレが黒人だったからだ」というガーナ・チームのアシスタント・コーチの話が引用されている。
「われわれは、4−2−4のシステムを採用し、ブラジル・スタイルにあこがれた」という。これを読んで、1958年ワールドカップでブラジルが優勝し、黒人のスーパースターが登場したことが、当時つぎつぎにヨーロッパの植民地支配から独立していたアフリカの国に影響を与え、サッカー以外の分野でも民族意識を刺激したのではないかと想像した。そうだとすれば、ぼくたちが考えていた以上に、ペレは世界に大きな影響を与えていたことになる。
ガーナのサッカー協会は1967年にブラジルに「英語の話せるコーチを送ってくれ」と依頼した。それがガーナのサッカーの近代化のはじまりだった。
この話は、非常におもしろいのだが、ここでは、これ以上の紹介は伏せておく。
感心したのは、英国の新聞が試合の当日にチームや選手の話だけでなく、その国のサッカーの背景についての記事を1ページにわたって特集していることである。
★ガーナは「未来のブラジル}か?
今回のガーナの監督はセルビア人のデュイコビッチである。「ブラジルの影響は受けていない。私はセルビアのやり方で指導している」と記者会見で述べたという。しかし、選手のプレーのスタイルは、ブラジルふうだった。がっしりとした体格の選手が多いが、足技はうまく体のこなしも巧みでボールをキープできる。この特徴を生かして伸びれば「未来のブラジル」ではないかと思った。
攻めの組み立ては現代的である。2〜3人の組み合わせで、短いパスをすばやくつないで攻め込み、シュートのチャンスを作る。これはセルビア仕込みではないかと推測した。この攻めで何度もいい形を作ったが最後の詰めが悪い。一瞬、フリーになりながら、もう一つパスをしたり、シュートをはずしたりする。チームとしては未完成である。
アフリカ西海岸は、南米の黒人の祖先の国である。速筋性の体質でサッカーに向いている素材が多いのではないか。最近は若い素材がスカウトされてヨーロッパに行って活躍している。指導者もヨーロッパから来ている。いろいろな要素が、うまく組み合わされば、まだまだ伸びる余地は大きい。
試合は開始4分にブラジルが先制し、前半終了まぎわに2点目。ガーナは後半残り10分に、守りの中心のギアンがシュミレーションで2枚目ののイエローカードをもらって退場。勝ち目はなかった。 |