第14部 ワールドカップ・ロシア大会(2018年)へ向けて
5.ワールドカップの回想(その3)
◆1970年メキシコ大会
ヨーロッパ地域の予選では、北アイルランドとトルコと同グループとなり、3勝1引分の成績を残し、1958年以来、4大会連続で本大会に進みました。
本大会1次リーグ、グループ1で開幕戦を開催国メキシコと戦い、引き分け(0−0)ましたが、べルギー(4−1)、エルサルバドル(2−0)を下し、同グループ1位で準々決勝進出を果たし、ウルグアイと対戦しました。試合は0−0のまま延長戦となり、
116分にフォンテスに替わって入ったウルグアイのFWエスパラゴに決勝点を奪われ、ベスト8で大会を去りました。
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1970年 メキシコ大会記念マキシマムカード
GK:アンツォール・カザヴァシヴィリ、MF:ウラジミール・ムンチャーン、
FW: アナトリー・ヴイショヴェッツ
(2015年10月1日特別記念消印入り)
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◆1982年スペイン大会
ヨーロッパ地域予選グループ3(参加5カ国)で、首位(6勝2分け)となったソ連は、同2位のチェコスロバキアとともに本大会に進出しました。
出場国数が24カ国に増えたスペイン大会1次リーグ、グループFでは、ブラジルについで2位。2次リーグ、グループAではポーランドに、得失点差で後塵をはいし、準決勝進出を逃しました。
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1982年 スペイン大会記念マキシマムカード
GK:リナト・ダサエフ、 FW:ラマツ・シェンゲリヤ、 FW:オレグ・ブロヒン
(2015年10月1日 特別記念消印入り)
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開催都市巡り
(4)カリーニングラード
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大会開催都市ポスター絵ハガキ
(4)カリーニングラード
(2015年9月18日発行) |
1255年にドイツ人の東方植民により建設され、ケーニヒスベルクとしてドイツ東北辺境の重要都市でした。第2次世界大戦末期の1945年4月のソ連軍の攻撃を受け陥落。ポツダム会談の結果、東プロイセンの南部はポーランド領、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連邦に編入。1946年ソ連最高会議幹部会議長のミハイル・イヴァノヴィッチ・カリーニンに因んでカリーニン
グラード市と改称されました。
冷戦時代は、ソ連の重要な不凍港としてバルト艦隊の拠点となり外国人の立ち入りが規制された閉鎖都市でした。
1990年3月11日にリトアニアが再独立を宣言しソ連邦から離脱したことから、カリーニングラードは、ポーランドとリトアニアに挟まれたロシア連邦の飛び地となっています。
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