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■ 手のひらの上のサッカー史
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第14部
W杯ロシア大会へ向けて

1.大会最初の郵趣品

2.大会前1000日記念

3.W杯の回想(その1)
4.W杯の回想(その2)
5.W杯の回想(その3)
6.W杯の回想(その4)
7.W杯の回想(その5)
8.W杯の回想(その6)
9.伝説の人々(その1)
10.伝説の人々(その2)
11.伝説の人々(その3)
12.伝説の人々(その4)
13.伝説の人々(その5)

 


小堀 俊一 (こほり・しゅんいち)
1941年生まれ。 
フットボール・フィラテリスト、ビバ!サッカー研究会会員。
40年あまり前から、サッカー郵趣品(切手・はがき・封筒・記念消印などの郵便物資料)を収集し、楽しみながら世界のサッカーを学び続けています。
著書:「サッカー百科展」(1992年・大修館書店)、「サッカースタンプスタジアム」 (2002年・ 日本郵趣出版)


第14部 ワールドカップ・ロシア大会(2018年)へ向けて

7.ワールドカップの回想(その5)

 
  最後のソ連代表から、新生ロシア代表として出場した4大会を取り上げた 記念小型シートを発行しました。(2回に分けて紹介します)

左上:1990年イタリア大会、  右上:1994年USA大会
左下:2002年韓国・日本大会  右下:2014年ブラジル大会
     (2016年7月29日発行)

◆1990年イタリア大会〜ソ連邦としての最後の大会
  1次リーググループBで初戦ルーマニアに0−2、第2戦もアルゼンチンに0−2、第3戦この大会に旋風を巻き起こしたカメルーンを4−0で下したがグループ4位にとどまり、敗退。
 なお1990年には下図のとおり、横5連刷(5種類)として発行されています。

1990年イタリア大会記念
  (1990年5月25日発行)

1994年USA大会 
 1991年12月25日のソ連邦の解体後、ロシアサッカー連盟をその後継とすることをFIFAが認め、ロシアとしてはじめてのワールドカップ出場です。
 1992年からスタートしたヨーロッパ予選グループ5で、8戦を5勝2分け1敗で同グループからギリシャと共に本大会へ進出。(同予選で同じグループ5のユーゴスラビアは国連制裁を受け不参加)
 本大会1次リーググループB、初戦のブラジル戦で0−2と敗れ、第2戦のカメルーン戦でサレンコが5得点をあげ6−1と勝利するも、第3戦でスウェーデンに1−3で敗れ、グループ3位に終わりました。

1994年USA大会記念

 ロシアは1994年のこの大会の記念切手は発行していません。そのため今回新たにデザインした切手状シールが収められています(シールですから、料額の表示はありません)。
  同シールには、1994年6月28日のロシア対カメルーン戦の後半31分14秒時点でのスコア、5−1が掲示されています。描かれているプレイヤーは大活躍したサレンコかと思われます。

1998年フランス大会
 ヨーロッパ予選のプレイオフをイタリアと戦い、1−1、0−1で本大会出場を逃しています。

 

開催都市巡り
  (5)モスクワ <2>  

 モスクワでは、2つのスタジアムで、開幕戦、準決勝、決勝戦などが行われる予定です。
 モスクワの二つ目のスタジアムは、新たにモスクワ北西区に建設され、2014年8月に竣工したオトクリティ・スタジアムです。「FCスパルタク・モスクワ」のホームスタジアムです。収容人数46,990人。

オトクリティ・スタジアム
(収容人数:46,990人)

(2015年11月17日発行、特別記念消印入り)



モスクワの歴史(Part2)
 
◇「ロシア帝国」成立と「サンクトペテルブルク」への首都移転
 1682年に即位したピョートル1世は、当初異母兄弟イヴァン5世との共同統治を経て、1689年に単独統治を実現。以降、専制君主政治の根幹である「ツァーリズムを完成させ、ロシアの近代化、大国化を目指す対外政策を展開しました。
 1700年、「海への窓」であり、「西欧への窓口」であるバルト海進出をねらい、スウェーデンとの「北方戦争」に突入。1721年には疲弊したスウェーデンの講和申し入れを受諾。バルト海の制海権を手にし、北方における最強国として、ヨーロッパ列強国の仲間入りを果たしました。
 1721年、ピョートル1世は、「ロシア帝国」の建国を宣言、首都を1703年に建設された「サンクトペテルブルク」へ遷しました。

◇ソ連邦の成立とモスクワへの首都移転
 ニコライ2世(在位1894〜1917年)時代に起きた日露戦争(1904〜1905年)と第1次世界大戦(1914〜1918年)は、多数の兵士の犠牲と国民生活の窮乏を招き、社会不安と混乱の拡大は、ロシア専制体制に大きな動揺を与えました。
  1917年3月8日(ロシア暦2月23日)首都ペトログラード(1914年、サンクトペテルブルクはペトログラードと改名)で起きた、大規模なストライキと武装蜂起の鎮圧に向かった軍隊までが加わる事態が発生。これを機に、各地に労働者と兵士代表からなる評議会(ソヴィエト)が組織され、議会内にも臨時委員会が設けられました。退位を迫られたニコライ2世は、弟ミハイル大公への譲位意向を示しますが、大公の辞退により、1613年から300年あまり続いたロマノフ朝は終焉しました。(3月革命)
 3月革命後は、「戦争継続」を掲げる臨時政府と「平和とパンと土地」を求めるソヴィエト(労働者と兵士)が並立する二重権力状態に陥っていました。
 1917年11月1日(ロシア暦10月25日)、レーニンとトロツキーの指導により、ソヴィエト左派のポリシェヴィキが武装蜂起し、ソヴィエト政権を樹立します。(11月革命)
 1918年1月、レーニンはソヴィエト大会において、「社会主義ソヴィエト共和国」の成立を宣言。1918年ポリシェヴィキ(ソヴィエト左派)は「ロシア共産党」と改称し、首都機能をモスクワへ遷しました。
 その後、ソヴィエト政権とこれに反対する諸勢力とによる内戦に突入。諸外国はロシア各地の反革命運動を利用し干渉を仕掛けました。ソヴィエト政府は、トロツキーの指導する「赤衛軍」により、内戦と外国の干渉に対抗し、1920年末には、ほぼ勝利を収めました。
 1922年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの4つの「ソヴィエト共和国」が連合する「ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦)」が成立し、モスクワは、同連邦の首都の位置づけとなりました。(了)


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