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サッカーマガジン 1992年12月19日号

アジアカップ総評
日本サッカーに新しい夜明けが訪れた!
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Bグループ
アジアの力は接近していた!

 第10回アジアカップの参加国は、地区予選に勝った6チームに前回優勝のサウジアラビアと開催地元の日本を加えた8チーム。これをA、Bの2グループに分けて総当たりのリーグ戦をし、各組の上位2チームが準決勝に進出する方式である。広島市と尾道市の会場を使って、1日に1会場で2試合ずつ行なわれた。この日程には問題点はあるが、アジアのサッカーを知るためには、全部の試合を見ることが出来たのが好都合だった。
 アジアは、日本、中国などの東アジア、タイなどの東南アジア、イラン、サウジアラビアなどの西アジアに、おおまかに分けてみることが出来る。それぞれの地域のサッカーの特徴やレベルを知るには、今回は、いい機会だった。また、8チームのうちイランを除く7チームに、外国人の監督あるいはコーチがいた。彼らが各地のサッカーに、どんな影響を与えているか、その腕比べを見るのも興味深いところだった。
 広島大会の開幕は10月29日。5万人収容の広島広域公園陸上競技場で午後4時から開会式があり、午後5時からのナイターでまずBグループの2試合があった。
 先に試合の始まったBグループの方から見てみよう。
 B組の試合は、各チーム2試合ずつを終わったところで、全試合が引き分けだった。
 大会の序盤戦のリーグ試合は引き分けが多いものである。相手の様子を見ることが大事だし、上位2チームに入ることを目標に無理をしないで守備的に戦うからである。しかし今回のB組リーグの場合は、4試合のうち0−0の引き分けは一つだけだから、守備的な試合が引き分けを招いたとばかりはいえない。どのチームにも勝つチャンスがあり、どのチームにも負ける危険性があった。
 このグループでは、タイが比較的に格下という予想だった。地区予選で韓国を破って、東南アジアからただ一つ出場権を得たのだが、6月にバンコクで行われた予選大会のとき、韓国は国内のプロリーグの日程が重なっていて、実業団チーム主力のチームで参加した。だから決勝大会進出は幸運だったと見られたわけである。
 しかし、タイは、初戦に中国と、第2戦ではバルセロナ・オリンピックのベスト8のカタールと互角の試合で引き分けたのだから、東アジアに対しても、西アジアに対しても、見劣りはしなかったといっていい。最終戦ではサウジアラビアに力負けしたが、ドイツ人のスタッフ監督は「タイの一番大きい選手も相手の一番小さい選手より小さい。体力的には劣っていたが、タイに潜在的能力があることを示すことが出来た」と語っていた。ドイツの組織的なチームプレーと体力作りを加えて戦おうとしたようだが、東南アジアの選手の柔軟な足技と連携の良い守りの特徴も生かされていた。
 カタールは第2戦のサウジアラビアとの試合で後半先取点をあげながら、終了4分前、アルムワリードに右タッチライン近くから、40メートル近い大ロングシュートを決められて同点にされた。しかし、決勝戦に進出したサウジアラビアに勝つ寸前までいったのだから、これも力の差はないといっていい。最終戦で中国に2−1で敗れたのは、正ゴールキーパーが前の試合で負傷して出られなかったのが一つの原因で、中国の傅玉彬が好守の連続でピンチをしのいだのと対照的だった。
 結局、中国とサウジアラビアが勝ち進んだが、この両チームはシュートをたくさん放つ割りにゴールが決まらなかった。こういうのを「ゴール・シャイ」といって東アジアのサッカーの欠点だとされていた。しかし、西アジアのチームにも、同じような欠点があるようだ。

Aグループ
戦術能力高かった日本代表

 Aグループは日本の属しているグループである。尾道市のびんご広域公園陸上競技場で行われた初戦で、日本はアラブ首長国連邦(UAE)と引き分けた。しかし、この時点、つまり全チームが1試合ずつを終えたところで、日本はすでに8チーム中、もっとも個人の戦術能力が高いチームであることを示していた。日本代表チームの良いところが、引き分けではあったが、この試合にすべて表れていた。
 夏の北京のダイナスティ・カップ優勝のときには、後半に交代で出ただけだったラモスが、今度は先発メンバーで出て中盤をリードした。ラモスがオフト監督に不満をもち、日本代表を辞退するという噂も大会前には出ていたのだが、オフト監督は35歳のラモスの気持を燃やすことに成功し、この大会をラモスに賭けることに踏み切ったようだった。
 守備ラインは4人のゾーンで、その前の「中盤の底」には、オフト監督に見出された24歳の森保が起用された。この森保の活躍が、UAEの逆襲速攻をさえぎり、0−0の引き分けに持ち込む大きな力になった。
 北沢と三浦カズが攻撃への斬り込み役として動き回り、長身の高木が最前線にいた。
 こういうチームの戦略は、初戦ですでに示され、途中、出場停止や病気でメンバーの変更はあっても、骨格は最後まで変わらなかった。たとえば、高木は序盤戦でなかなか調子が出なくて、アジア・サッカー連盟の技術検討グループが出したレポートに、前線の「おとり」だと書かれたりしたが、オフト監督は、終始、先発からはずさなかった。それが、最後には決勝戦の決勝点に結びついた。
 日本の第2戦は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と1−1の引き分け。前半に先取点を奪われたが、後半は試合の主導権を握り、カズのPK失敗はあったものの、中盤の北沢に代えて中山を投入、前線を増強した交代策が当たって残り10分に同点に追い付いた。
 北朝鮮はハンガリーから来たコーチをベンチに加えていた。初戦にイランに2−0で負けているので、日本には、ぜひ勝たなければならない立場だった。そのためもあって、立ち上がりから猛烈に動いて頑張ったが、あのペースで90分、走り回るのは難しい。しょっちゅうハーフラインを越えるような極端な守備ラインの押し上げを使い、戦法にも無理があった。要所にはベテランがいるが、若い選手も多く、まだ未完成のチームだった。 
 イランは、このグループで、もっとも強敵だといわれていた。大柄な選手が多く、技術があり、組織的な攻めをする。2年前の北京アジア大会の優勝チームだから、当然、今回も優勝候補だった。 
 第2戦はUAEと西アジア同士の対決。A組の2強を意識したようで0−0の引き分けだった。 
 日本は2引き分けで、グループ最終戦は、このイランに勝たなければベスト4に残れないことになった。しかもラモスが前日に胃痛を起こして先発できない状態だった。しかし残り5分に井原からのパスに合わせて、カズが相手守備ラインの裏側にうまく抜け出して決勝ゴールを決めた。 
 イランは、個人技術も体力もすぐれていたが、中盤でボールをとったときに、次のプレーを選択するのに一瞬の間があった。そういう個人の戦術能力の速さで日本が上回っていた。それが日本の勝因の一つだった。 
 厳しい条件のもとでの、厳しい試合をものにした選手たちの精神的強さも光っていた。
 引き分けでは進出できない状況で最後に大胆な選手交代策を的中させたオフト監督の用兵も見事だった。

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