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サッカーマガジン 1992年12月19日号

アジアカップ総評
日本サッカーに新しい夜明けが訪れた!
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 広島で開かれた第10回アジアカップで、日本は、劇的な初優勝を飾った。日本代表チームが公式選手権のタイトルをとったのは、戦後初めてのことである。これは、日本のサッカーの新しい夜明けだった。
 この快挙には二つの大きな意味があった。一つは日本のサッカーが、アジアに初めて大きな貢献をしたことであり、もう一つは、日本代表チームがようやく、自分たちの進むべき方向を見出したことである。

歴史的な快挙
日本サッカー史上最大の出来事

 山の中腹のま新しいスタジアムが日の丸の波に揺れ動いた。歓声と歌声が夕空にこだました。金メダルを受け取ったばかりのカズが、ラモスが、北沢が、バックスタンドの前で観衆と一緒に跳びはねて踊った。
 1992年11月8日。広島広域公園陸上競技場。日本のサッカーが新しいカレンダーの1枚目をめくった日であり、場所である。
 夕闇の中にナイター照明が浮かび上がる光景を見ながら、これは過去の日本のサッカーにはなかったものだと気が付いた。グラウンドの選手たちとスタンドの大衆が、同じ感性で、同じリズムで歓喜している。サッカーが大衆の中にあり、選手が大衆の中にいる。エリートの大学生や企業社員のスポーツだったサッカーが、いまは大衆とともにある。それがすばらしい。
 日本が初めて国際大会に参加したのは、1917年(大正6年)に東京の芝浦で開かれた極東選手権大会(いまのアジア競技大会)である。まだ日本にサッカー協会が出来る前で、東京高等師範学校(のちの東京教育大、いまの筑波大)のチームが出場して、中国とフィリピンに完敗した。それから75年。その間にいくつかの歴史的な出来事があった。
 1930年(昭和5年)に東京の神宮競技場で行われた極東選手権大会では日本代表チームが中国と優勝を分け合った。これが、これまではサッカーの日本代表チームの、ただ一つの国際タイトルだった。
 その後、1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックに参加して優勝候補のスウェーデンに勝ったことがあり、戦後は1964年の東京オリンピックでアルゼンチンを破ってベスト8に入ったことがある。そして1968年のメキシコ・オリンピックでは、銅メダルをとった。
 このような歴史に残っている出来事の中でも、今回のアジアカップ優勝が、もっとも大きな快挙だったことは明らかだ。
 戦前の極東大会優勝は、わずか3カ国の参加で、しかも中国と引き分けの同位優勝だった。その後、メルボルンやメキシコのオリンピックに参加したときの予選突破も、ライバルの韓国とは、1勝1敗、あるいは引き分けで、文句なしの出場権獲ではなかった。
 しかし今回は、参加国が中近東のアラブ諸国まで広まり、アジアのサッカーのレベルが向上しつつある中で勝ち抜いた見事な優勝である。
 アジア・サッカー連盟のタン・スリ・ハジ・ハムザ会長は「日本が長い低迷から抜け出して、アジアのトップに戻ってきたことを喜ぶ」と話していたが、戻ってきたというよりも「日本はアジアのトップレベルに初めて仲間入りした」といった方が正確だろう。
 タン会長の言葉には、実は別の意味も、こめられている。
 アジアのナショナルチームの選手権であるアジアカップは36年の歴史を持っているが、その間、日本はほとんど参加していない。第4回大会の予選にBチームを送って敗退、4年前の前回も、若手中心のメンバーで参加し、はじめて決勝大会に進出はしたが、1次リーグで敗退している。
 このように、日本サッカー協会はアジアのタイトルを大事にしていなかった。それが他のアジア諸国にとっては不満だった。広島でのアジアカップ開催と日本の優勝は、そういう点でも「日本がアジアに戻ってきた」ことを意味していた。
 最初から、古くて堅苦しい話になってしまったが、アジアカップ優勝が、単なるワールドカップ予選への過程ではなく、またJリーグ発足の景気のいい前触れでもないことをはっきりさせたうえで、広島での戦いを振り返ってみよう。

 


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