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サッカーマガジン 1989年10月号

コパ・アメリカを見て
ブラジル、40年ぶり優勝!
イタリアめざす戦法とは?      (1/2)    

 7月の南米選手権「コパ・アメリカ」は、伝統のタイトルを争う場であると同時に、南米の各国にとって、イタリア・ワールドカップヘの準備のスタートでもあった。
 その中で、ブラジルはとくに難しい立場にあった。地元開催として優勝を強く期待されている一方、2週間後に始まるワールドカップ予選に備え、さらに来年6月のイタリアヘのチーム作りも考えなければならなかった。
 ラザローニ監督は、この課題を常に意識しながらコパ・アメリカを戦い、見事に40年ぶり4度目の優勝をかち取った。16日間の大会を振り返りながら、ブラジルがワールドカップをめざして、どのようなチームを作ろうとしているのかを、探ってみたい。

象徴的な決勝ゴール
 リオデジャネイロの下町にある世界最大のマラカナン競技場が全部埋まることは年に数度しかないという話である。7月16日、コパ・アメリカの最終日は、その年に何度かしかない日だった。有料入場者は13万2743人。ゲストが1万5325人、合計観衆は14万8068人という発表だったが、実数は17万人以上だっただろう。スタンドはほとんどぎっしりだった。
 優勝をかけた決勝リーグの最終戦、ブラジル対ウルグアイは午後5時キックオフ。ようやく西に傾きかけた太陽が、フィールドを取り囲む屋根の影を芝生に円形に落としていた。
 試合は厳しい守りで始まった。ウルグアイは、すでに世界に名を知られたベテランがほとんどである。アルサメンディをトップに残し、フランチェスコリが中盤をつなぎ、4人の守備ラインの前に、さらに4人のラインを敷いている。厚い守りからの伝統の逆襲態勢である。
 パスをつないで攻めるブラジルが、ボールを支配していたが、ウルグアイがゴール前に張った網にかかって、なかなかいい形にならない。前半は0−0。ブラジルにとって、ウルグアイのこの守りの網を、どのようにして打ち破るかが後半の課題だった。
 回答は後半が始まるとすぐに出た。(図1)
 5分、右後方のマジーニョがボールを取ると、中盤に下がってきたベベットに渡し、その足で一気に前線に出た。このとき、マジーニョは外側からオーバーラップしないで、内側を巻いて裏側へ出た。そのためにベベットはライン沿いに外へ出る形でドリブルして、ウルグアイの守りを引き寄せた。
 ベベットは、前方に進出したマジーニョにパスを戻す。
 マジーニョはスピードに乗ってさらに持ち込み、右からゴール前にライナーのセンタリングを送った。
 ニアポストの前にいたロマーリオは、ほとんど動かなかった。立っていた場所から、そのままボールに飛びつき、飛び出したゴールキーパーの鼻先でヘディング・シュートを叩き込んだ。
 これが優勝を決める決勝点になった。ウルグアイは守りに力を注ぐことが出来なくなり、選手交代をして長身選手を前線に出し、最後には守備ラインのグチェレスも前線に出て逆襲を狙った。しかし、リードした後は終始、余裕を持ったブラジルのペースだった。
 ブラジルのラザローニ監督にとって、これは会心のゴールだっただろう。なぜならば、ラザローニ監督が本当に使いたいと思っていた選手が、狙い通りに働いて、もっとも期待していた形で得点になったからである。これはコパ・アメリカを通しての、ブラジルのチーム作りを象徴するようなゴールだった。

ラザローニ監督の課題
 優勝を決めた決勝点が、なぜ象徴的だったかを詳しく説明するには、ラザローニ監督の立場を開幕試合にまでさかのぼって振り返ってみなければならない。
 コパ・アメリカを戦うラザローニ監督には、3つの課題があった。
 第一は、この大会に優勝することである。
 もちろん、どのチームも優勝をめざしているが、ブラジルはサッカーが国家そのものであるようなお国柄だから、地元開催の重要な大会で優勝することは至上命令である。
 優勝がウルグアイとの間で争われることになったとき、この国では誰もが、1950年のワールドカップで、同じ7月16日に、同じマラカナン競技場を舞台に、ブラジルとウルグアイが優勝を争った試合を思い出した。
 39年前、絶対に勝つと思っていた試合をウルグアイに2−1の逆転でさらわれたとき、ブラジルは国全体が死んだようになったという。同じことがまた起きたら、ラザローニ監督は、いかにチームを作り、いかによく戦っていたとしても、即座にクビは間違いない。
 ブラジルは、南米選手権では、1949年以後、優勝していなかった。その40年間にワールドカップでは3度も優勝しているにもかかわらずである。世界一のタイトルはもちろん輝かしいものだが、南米の強豪の間のライバル意識は、また独特のものがある。だから地元開催のこの機会に、南米の王者であることを証明することも絶対に必要だった。
 ラザローニ監督の第二の課題は7月30日から始まるワールドカップ南米予選のためのチーム作りである。
 南米各国のスタープレーヤーは、ほとんどがイタリアやスペインなど欧州のプロに行っている。だから9月から翌年の5月、6月にかけての欧州のシーズン中には、最強のメンバーでチームを作ることは不可能である。
 欧州のシーズンが終わって、スターたちが戻って来る7月と8月にコパ・アメリカと南米予選を戦うわけだが、チームとしてまとまってトレーニングをする時間は、ほとんどない。
 しかも選手たちは、欧州の厳しい試合に疲れ果て、ケガを抱えて帰って来る。
 そのような選手たちを、コパ・アメリカを戦いながら調整させ、チームとしてまとめなければならなかった。
 そして第三の課題は、翌年6月のイタリアの大会に備えて、チーム作りを始めることである。9月になれば、選手たちはまた欧州へ行ってしまうのだから、まだ1年先のこととはいえ、チーム作りの基本的な見通しはここで、考えておかなければならない。
 南米選手権の優勝を激しく争いながら、ワールドカップを考える――これは厳しい課題だった。


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