第62回天皇杯は杉山監督率いるヤマハがフジタ工業を破って初優勝した。第53回大会で三菱が優勝、それも最後に選手生活を退いた“黄金の足”杉山が、肩車されてビクトリーランをした感動のシーンから9年。苦難のすえに花を咲かせた監督の頭には、めっきり白いものが増えていた。
杉山ヤマハを脱皮し、新しいカラー
「リュウ坊、よかったな」
「杉山、いい試合だったぞ」
ヤマハの杉山隆一監督は、スポーツ記者とテレビのインタビュー攻勢から解放されると、今度は、大先輩たちからの祝福攻めにあっていた。
1983年の元日。東京の国立競技場。
明治大学の先輩もいる。静岡県サッカー協会のお偉方もいる。三菱のOBもいる。関東大学サッカーの長老OBもいる。もちろん日本サッカー協会の首脳陣もいる……。
41歳の杉山監督よりも、20歳も30歳も年長の人たちが、ヤマハの日本一をわがことのように喜んでいた。
この年代の人たちにとっては、若き日の“黄金の足”杉山隆一選手は、とびきり出来のいい、かわいい息子だった。
その息子が、いま指導者として「日本一」になった。「杉山ヤマハ」がついに花を咲かせた。
杉山監督の人柄の良さも加わって、誰もが「杉山ヤマハ」の栄光を、心から祝福したい気持だった。
だが杉山監督は、記者たちに囲まれてインタビューを受けたときに、こう話していた。
「これからは、杉山のヤマハだといわれたくないし、いわれないようになるでしょう。杉山のサッカーではなく、ヤマハのサッカーを伸ばして行きたいと思います」
この言葉をきいて、「杉山ヤマハ」として期待され続けてきたことが、本人にとっては相当の心の重荷だったんだな、ということを感じた。
同時に、この日、国立競技場で演じてみせたヤマハのサッカーが、名選手だった杉山の栄光をひきずったものではなく、ただの、ふつうの監督として苦労したあげくに作りあげた“新しいもの”を持っていることを、この談話は示していた。
幸運だけではないヤマハの初優勝
ヤマハの優勝を「幸運」といって片づけることはできない。
前年の日本鋼管の優勝は、千田監督に率いられた鋼管イレブンの努力の成果であったことは確かだけれども、それに、1部チームのふがいなさと幸運がプラスされていたように思う。だが、今回のヤマハはそうではない。
まず、戦績を見てみよう。
1回戦で東芝に2−1で勝ち、2回戦で富士通に1−0で勝ち、ここまでは2部同士の対戦で、得点は僅少差ながら、ヤマハとしては自信をもって順当に勝った、というところだろう。そして、3回戦の準々決勝の相手は、三菱だった。
三菱は、杉山監督がかつて選手として、現役を引退するまで8年間、活躍したチームである。ある時期には、三菱のサッカーがそのまま杉山のサッカーだったといってもいい。
その三菱に、ヤマハは1−0で勝った。後半もおわりごろの70分、右45度、30メートルのフリーキックからのボールを、沖野がヘディングで決めた。
この試合は2部のヤマハの方がずっと優勢で、三菱にはほとんどチャンスがなかったといえる。記録を見ると、シュート数は16−1でヤマハが圧倒している。
かつて杉山監督が在籍した三菱のサッカーの亜流でない“新しいもの”を、ヤマハがひっさげて天皇杯に登場してきていることに、この時点で気づくべきであった。
しかしヤマハの試合は、1、2回戦が静岡県磐田市のヤマハグラウンドで行われ、準々決勝の対三菱も静岡県の清水競技場だったから、ヤマハのサッカーをすでに知っている地元のファン以外の人は、ほとんど見ていなかった。
したがって、三菱に勝ったのは「幸運」があったのだろうと受けとられた。12月30日に東京の国立競技場で行われた準決勝で、ヤマハが読売クラブに勝つだろうと予測した人は、ほとんどいなかった。攻め合いの試合になるだろうが、読売クラブの攻撃力をヤマハがしのぎ切るとは思えなかった。
だが結果は、2−0でヤマハの快勝だった。
いまから考えると、この試合はヤマハにとっては決勝戦よりも重要な、天皇杯へのヤマ場だったように思われる。
90分間を通じて、足わざのいい読売クラブが、ずっと優勢にボールを支配していた。しかし、ヤマハは前半の終わりにさしかかった頃、たて続けに2点を入れ、読売クラブの攻撃をよくしのいでゴールを許さなかった。
34分の1点目は、左コーナーキックを内山篤がけり、中盤の沖野が決めたものだった。これはセットプレーを巧く生かしたゴールだったが、この1点だけなら、まだ勝負はわからなかっただろう。
しかし先取点された読売クラブが反撃の総攻撃に出ようとすると、その裏をついた逆襲速攻で、35分に2点目がはいった。
望月が右ラインぞいにドリブルで攻め込んだとき、読売クラブのゴール前にはヤマハの選手が4人も走り込んでいたのに、読売クラブの守りは、2人だけだった。
望月のセンタリングがヤマハの選手に渡ろうとするのを、松木が必死にとびこんだが、松木の足に当たったボールはゴールに飛び込んで自殺点になった。
1点目と2点目の間は、1分あまり。読売クラブにとっては“魔の1分間”だったが、この間に起きた一瞬の攻防で、ヤマハの守から攻への切り換えの速さが、読売クラブの攻から守への切り換えをはるかに上まわり、それがこの試合を決めた。
読売クラブはそのあと反撃を焦って、攻めも守りもばらばらになり、後半はヤマハのオフサイドトラップに何度もひっかかるなど、みっともない試合をした。
与那城の独走がゴールキーパー菅藤の好守に防がれたり、コーナーキックから加藤がヘディングで落としたのを戸塚がオーバーヘッドシュートしてはずしたり、終了間ぎわにトレドのシュートがポストに当たり、さらにバーに当たるなど、読売クラブには個人技による惜しいチャンスはいくつもあったけれども、チームとして粘り強く反撃する力は失っていた。
元日の決勝戦。相手はフジタ。
前半は攻め合いだったが、フジタにもヤマハにも、いいシュートはほとんどなかった。しかしこの日も、ヤマハの守から攻へり切り換えの速さは、目立っていた。
後半にはそれがますます明らかになって、ヤマハの方にチャンスが多くなった。しかし得点はなく延長戦。
延長前半がはじまって間もなくの94分、右サイドで内山篤が相手をはずして巧みにゴール前へあげ、志田がせって出たボールを吉田が決めて、ヤマハの決勝点が生まれた。
三菱、読売クラブ、フジタと、日本リーグの上位チームを連破しての優勝を、もはや幸運続きだ、などということはできない。
ロイヤルボックスに上がって受けとった天皇杯は、新しい力で堂々とかちとったものだった。
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