新戦力起用で独自のスタイル完成
ヤマハに敗れた1部チームを、いちがいに「ふがいない」とはいえないと思う。なぜならヤマハは、1部チームが持っていない新しいものを持って、天皇杯に登場していたからである。
新しいものに初めて出会って対応できなかったのを「ふがいない」ということはできない。本当にふがいないプレーが他にあったとしても、この点については、新しいものを持って、登場した方を評価しなければならない。
では、その「新しいもの」は何か。
ひとことでいえば「オランダのサッカーのヤマハ版」である。
リヌス・ミケルス監督によるオランダの、いわゆる“トータルサッカー”がワールドカップでオレンジ旋風を巻き起こしたのは、1974年である。年代的にはもはや新しいとはいえないが、その考え方をヤマハのチームに応用し、ヤマハの選手を生かしたサッカーを作り出したところは新しい。
ヤマハの新しいサッカーの狙いは手持ちの戦力を最大限に活用することにあったのだと思う。
天皇杯に登場したヤマハの選手たちのうち半分は、前年のレギュラーとは違う顔ぶれである。
「新しい人には、2部に落ちたときのショックがありませんからね」と杉山監督は話していたが、古いチームから本当に力のある選手だけを残し、補強した9人の新人の中から新戦力を、どんどん起用することにしたのは英断だった。
新戦力を生かすために、ヤマハはツートップの布陣を敷いていた。若手の吉田と三輪がトップをつとめた。この2人は愛知と静岡の高校出身で、中央ではそれほど知られていない選手だ。
中盤には3年目の長沢、新人の沖野、内山篤を入れていた。前年度のヤマハは、長沢の技術だけが光ってみえたが。新しいチームでは、4人にして厚味の出た中盤に若さと技術の良さが集中していた。
驚いたことに、キャプテンは新人の沖野だった。いかに若いチームだといっても、レギュラーの中に27歳の選手もいる。22歳の新人にキャプテンマークをつけさせたのは変わっている。
沖野は、岡山高校総体でも活躍し、広島工のころから将来を期待されていた素材で、新人ながらヤマハのメンバーの中では、技術にも走力にも光るものを持っている。
この沖野を最大限に活用しなければ、1部のチームに対抗することはできない。
しかし、年功序列のある日本の企業チームのムードの中で、新人が我が物顔に力を出すことはむつかしい。本人が素直な性格であれば、なおさらである。
そこで、キャプテンマークをつけさせることによって、自分のイニシアチブで積極的にどんどんプレーをするように仕向けたのではないだろうか。
沖野はもともとウイングプレーヤーだが、ヤマハでは中盤に下げ、4人のミッドフィールダーの中で、左サイドの攻撃的ポジションに使った。これも左利きの沖野を、最大限に活用するための狙いだったらしい。
ツートップの布陣では、前線にオープンスペースができやすい。そこへ中盤から、あるいは後方から攻め上がる。若さと走力を生かすには、これは、簡明な方法である。
技術のある若い選手をどんどん活用する。そのために、もっとも適切な方策を遠慮なく採用する。それがヤマハの新しいチーム作りだった。
外人コーチ招聘に人間的成長をみる
このような“ヤマハ改造”のプランを作ったのは、7月〜8月の2カ月間、オランダから招いたハンス・オフト・コーチだった。ツートップの布陣も、沖野をキャプテンにするのも、オフトのアイデアだったという。
しかし、だからといって、これが杉山監督の功績でない、ということはできない。むしろ、オフトのアイデアをつぶさずに、天皇杯を獲得して大きく伸ばしたことに、監督としての杉山隆一の成長をみたい。
実は、ヤマハのサッカーが変わりつつあることは、元日の天皇杯よりも4カ月前、8月19日に静岡草薙球技場でJSLカップの準決勝を見たときに、すでに感じられた。そのことは、「サッカーマガジン」82年11月号の「ビバ!サッカー!」のページに書いてある。
スピードがあるだけではなく、攻めに狙いがあり、守りにはコンビの良さがある。天皇杯の試合では攻守の切り換えの速さ、オフサイドトラップの使い方にも、進歩のあとがあった。
さて8月末のJSLカップの時点では、それは、まだハンス・オフトの功績だった。オフトが2カ月にわたってヤマハを指導した直後だったからである。
だが、そのオフトの作った基礎を大きく伸ばせるかどうかは、きわめて疑問だった。新しいものを受け入れるのは、誰にとってもむずかしいが、杉山隆一ほど輝しいキャリアを持っている人物にとっては、ことさらそうだろう。自分の経験と力量に充分の自信を持っているのだから。
したがって、オフトの作った基礎をたちまちこわしてしまうことは簡単だったはずである。しかしヤマハは、その基礎の上に立派に自分のサッカーを築いた。それが可能だったのは杉山監督の度量である。
ハンス・オフト・コーチは、清水東高校の勝沢要監督が、1980年の春に高校選抜を率いてヨーロッパに遠征したときに、オランダ協会のユースの指導者として知り合い、それが縁で静岡のサッカーと結びついた人である。
そのオフトを呼んでもらう話を、静岡のサッカー関係者がヤマハに持ち込んだとき、杉山監督は大反対だったという話がある。「外国のコーチを呼ぶんだったら、自分はやめる」といったという。
それはそうだろう。自信とプライドのある監督なら当然だ。
しかも杉山隆一は選手のころ「外国人に負けられるか」という執念を燃やして戦ってきた男である。監督になってからも「ヤマハにも外人選手を入れたら」という声に対して「できるところまでは日本人だけでやりたい」と反対してきたという。
その杉山監督が説得されてハンス・オフトを受け入れると「口を出したいのを、ぐっとこらえて」滞在期間中は一切を任せ、その後も、その良い点を伸ばしていくようにチームを統率した。
天皇杯は、そういう杉山隆一の人間的成長に報いるものでもあった。
元日の国立競技場で、サッカー界の長老たちが祝福した以上に、杉山監督の栄光を喜びたい。
権威傷つけた関西協会の重大な過失
ヤマハのサッカーと杉山監督についてばかり書き過ぎたかもしれない。
杉山ヤマハの脱皮は、こんどの天皇杯の最大の収穫だったが、同時に唯一の収穫でもあったから、他にはとくにとりあげることはないようである。
ヤマハ以外のことを書こうとするなら、結局、例年と同じ繰り言になる。
ベスト8に残ったのは。やっぱり日本リーグの1部勢だった。ヤマハだけが2部だが、これも来季の1部入りが決まっているチームである。
その1部チームも(ヤマハは別として)天皇杯にかける意気込みは、ほとんど感じさせてはくれなかった。混戦のリーグが終わったあと、ほっとひと息つき、日本代表選手はアジア大会でくたびれはて、天皇杯はいやいやながら出場しているのだろうか。1部同士の試合の結果も、ほぼ実力ランキングの通りである。大学勢も地方勢も、波乱を起こすことはできなかった。
ただ前々回の田辺以来、3年連続で2部リーグのチームが決勝に出たことが示すように、2部の上位チームの力は充実してきているようだ。
運営面では非常に重大な問題があった。それは、関西大会を突破して出場した松下電器が、2回戦のヤンマーとの試合の日に、ベストの戦力で戦えなかったことだ。
松下は奈良県リーグからスタートし、近い将来に日本リーグ入りをめざし、また期待されているチームである。
日本リーグ入りするには奈良県リーグで勝ち、まず関西リーグにはいらなければならない。
その関西リーグ入りするための試合(関西社会人府県リーグ決勝大会)が、天皇杯決勝大会と同じ日に組まれていて、松下は、天皇杯で勝つためには日本リーグ入りを犠牲にしなければならず、日本リーグをめざすためには天皇杯をあきらめなければならない立ち場に追い込まれた。
結局、チームを二つに分け、松山で行われた天皇杯の方は交代要員なしの11人で参加し、残りで京都の関西大会に参加したのだが、これは明らかに関西サッカー協会の重大な手落ちである。
「奈良県リーグのチームが天皇杯の決勝大会に出るなんて思いもよらなかったから、こんな日程を組んだんだろう」と思ったら大違い。実は前年にも同じようなことが起きそうになって、問題になっている。にもかかわらず、あえてこういう日程を組んだのは、関西サッカー協会の故意のファウルとしかいいようがない。
どこの国でも、カップとリーグは、その国のサッカーの二大体系である。日本でも、ようやくそうなってきている。
この二大選手権大系が両立するようにするのが、サッカー協会の義務である。その義務を、故意にないがしろにした関西サッカー協会の罪は重い。
結果としては、松下は関西社会人リーグへの挑戦権を得たが「だからよかった」というものではない。
天皇杯の主権者である日本サッカー協会は、天皇杯の権威を傷つけたという理由で、関西協会を警告処分にすべきである。
この件については、松下はまったく被害者であって、なんの責任もない。
あらかじめ、松下が県協会を通じて要請を出していないのが悪い、などと官僚的なことをいっている人もいるらしいが、とんでもない。そんな要請が出なくても、協会は自分たちの選手権の体系を守る努力をしなければならない。
天皇杯の重要性に対する認識のなさが、こんなところにも表れているようだ。
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