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サッカーマガジン 1979年11月10日号

独占インタビュー★
アルゼンチン代表監督セサル・ルイス・メノッティ
メノッティ80年代のサッカーを語る
サッカーのプレーにおける
    インテリジェンスとは何か!! 
   (2/2)   

人間的なサッカー

メノッティ ボクシングでも、そうでしょう。ボクサーが、右から打とうと構えて、いつも右から打っていたら、必ず相手はブロックします。右で打つようにみせて、左を打ったり、右を連打したりしなければ、相手は驚きません。 

牛木 本当に、日本サッカーにとっては耳の痛い指摘だ。

メノッティ 「勝とう、勝とう、勝とう(ガナール! ガナール! ガナール!)」では結局勝てません。試合の前に監督が「勝たなくてはいけない。敵のゴールはあっちだ。それ!得点しろ」とけしかけたところで、どうしようもありませんよ。ゆっくりすること、つまりプレーすることで、相手の注意を散らし、こちらは考える時間を持つことができるのです。

牛木 日本人は思いつめる国民性でしてね。ぼくは、2、3日前から、メノッティに会ったら何を聞こうかと、そればかり考えていた(笑い)。 

メノッティ あまり、同じことを考えていては、そのときになって、うまくいかないんじゃないですか。こうして雑談している中にアイデアが出てくるものですよ。仕事をするためには、もっとほかのことをやらなくちゃいけない。友人としゃべったり、花を見たりして仕事までの時間を過ごすべきですよ。

牛木 それが、なかなかむずかしくてね。 

メノッティ こんな話があるんです。芝居の話なんですが、ある役者が、はじめて大舞台に立つチャンスを与えられた。その役者がしゃべるせりふは、たった一つだった。「ブエナス・タルデス、セニョール(今日は、だんな)」それだけだったんです。そこで彼は舞台にのぼる8時間も前から「ブエナス・タルデス、セニョール」「ブエナス・タルデス、セニョール」と繰り返していた。ところが舞台にあがって、口から出てきたのは「セニョール、ケ・リンダ・タルデ(だんな、なんて、すばらしい午後でしょう)」という言葉だったそうです(笑い)。 

牛木 日本の落語にも、似たような話があるね。

メノッティ あまりにも、同じことを繰り返していると、実際にやらなくてはいけないときになって、うまくいかない。1日中かかって覚えた言葉を忘れてしまう、という話です。頭の中でいつも「勝とう、勝とう、勝とう」と思っていると、しまいには試合をすることを忘れるおそれがある。 

牛木 どうも手きびしいな。 

メノッティ いや、日本のサッカーの批判だけしているつもりじゃないんです。アルゼンチンの選手たちにも、よくいっていることです。「なにか、むずかしいことをしようとするときは、その前に、道ばたに立ち止まって花を見たり、子供たちの遊んでいるのを、眺めたりすることがたいせつだ。そのほうがよい結果を得られる」とね。 

牛木 人生の教訓ですね。南米の人たちは人生を楽しむことを知っている。それがサッカーにもあらわれるようだな。 

メノッティ 人間は仕事のために、ただ走るだけじゃつまりませんからね。美しいものを見て楽しむのは、ムダなようでも、いいことだし、結果的には役立つのです。小さな、つまらないことでも、うまくやれば、大きいことをやろうという意欲が生まれます。はじめから高望みをして、急ぎすぎると、楽しくもないし、うまくもいきません。 

牛木 あなたは、絵が好きだと聞いたことがあるけど、それが結局はサッカーの監督としてのあなたの役に立っているようですね。 

メノッティ サッカーの監督は、若い人たちを教育する立場にあるわけです。つまり入間を扱う立場の人間ですから、機械を扱う技術者よりも、もっと人間的でなくちゃいけない。

牛木 つまり、人生を楽しむことを知っていなくちゃいけない。 

メノッティ 私はよくいうんです。「フットボールという“もの”は存在しない」とね。フットボールという“もの”があるとすれば、それは、ただの丸いボールそのもののことですね。しかし、私たちがフットボール(サッカー)と呼ぶのは、ただの丸いボールやコンクリートのスタジアムではなく、人間がプレーするサッカーなのです。だから人間とサッカーを切り離して考えることはできません。 

牛木 それはそうですね。 

メノッティ 人間がスポーツをするのです。人間がスポーツと結びつくのです。だから、まず人間がいなければならない。人を信じることのできる人間、責任感のある人間です。それからサッカー選手があるわけです。だから、フットボールは存在しないが、フットボールをする人間は存在する、といっているのです。 

牛木 ふーむ。 

メノッティ これは愛情と同じです。愛情というものは存在しない。お互いに愛し合う男性と女性が存在するのです。そして愛し合う人間同士が成長していくわけです。サッカーの発展についてもそうです。1980年代に、サッカーはどのように進歩するだろうか、という話でしたが、サッカーが進歩するのではなく、サッカーをする人間が進歩するわけです。

牛木 そうですね。だから、さきほどから繰り返して話が出ているように、1980年代のサッカーは、どんなものかといえば、人間としての能力、技術やインテリジェンスや勇気といったものを、1人1人が十分に発揮できるサッカーだろう。そういうサッカーになってほしいと思いますね。 

メノッティ すべては、人間とともにあり、人間とともに進歩するものですよ。  

スペイン大会の準備
牛木 ところで最後に、現実的な話題に戻りましょう。1980年代のはじめに、1982年のワールドカップがスペインで開かれます。ここでアルゼンチンはタイトルを守ることが、できるでしょうか。 

メノッティ 82年のための凖備は、もう始まっています。いま、プレーヤーの1人1人を個人的に研究している段階です。同じ話を繰り返すようですが、私がまず第一に関心を持つのは人間です。 

牛木 候補選手の調査をしているわけですか。 

メノッティ 79年中は、できるだけ多くのプレーヤーに接してみることにしています。そして、来年になりましたら、30人の候補選手を選ぶことになるでしょう。その中から最終の22人を選ぶことにするつもりです。 

牛木 アルゼンチンのいい選手は、どんどん外国のプロのクラブにトレードされて出て行きますね。昨年のワールドカップ優勝のメンバーも、すでにほとんど外国に出てしまいました。これは82年への準備の障害ではありませんか。 

メノッティ これはアルゼンチンでは、非常にむずかしい問題で、急に解決することは不可能です。しかし、なんとか改善しようと努力が試みられています。努力しているということが重要です。 

牛木 6月に開かれるスペインの大会は、北半球ですから、南半球のアルゼンチンとは逆の気候になります。またチーム数が24に増えるので、試合数が増え、期間も多少長くなります。そのような点で対策を考えていますか。 

メノッティ チーム数が増えるための影響は、どのチームにとってもいえることです。気候についていえば、アルゼンチンにだって夏はあるんだし、暑さに耐えられるだけの準備はするつもりです。そのための時間は十分あります。 

牛木 昨年のワールドカップでは、アルゼンチンの大衆の熱狂的な応援がありました。外国での大会では、あの応援はなくなりますね。 

メノッティ その点では、自国でやるときのほうが、責任感がのしかかって、かえってマイナスもあります。いいチームにとっては、すばらしいフィールドとすばらしいボールさえあれば、それでいいと思います。悪いチームなのに「アル! ヘン! チナ!」「アル! ヘン! チナ!」と叫んでもらったところで、明るい未来が開けるわけではありません。2500万人のアルゼンチン国民が「アル! ヘン! チナ!」を叫んでくれるのは、ありがたいことですけれども、だからといってチームがそれを期待すべきではありません。

牛木 日本のファンが、いかに「ニッポン!」「ニッポン!」と叫んだところで、チームが悪ければ、世界チャンピオンになれるわけではないし、悪いチームを良くすることもできない。問題はいいチームをつくることですね。 

メノッティ ワールドカップのためのチームは“コマンド(特殊戦闘部隊)”として準備されなければなりません。これは年間を通じて行われるリーグ戦とは違って、短期決戦の大会だからです。コマンド部隊は、全員が自分の義務を、はっきり理解していなければなりません。ファンの声援がなかろうと、相手が荒っぽいプレーで挑発してこようと、それを乗り越えられるだけの十分な心構えが必要です。私に課せられている使命は、チームを“コマンド部隊”のようにつくりあげることです。「サッカーが存在するのではなくサッカーする人が存在するのだ」とさきほど、いいましたけれども。アルゼンチンの詩に、こういうのもありますよ。「存在するものすべてが闘いである」と。

牛木 どうも、ありがとう。次の闘いでも成功することを祈ります。 

メノッティ (日本語で)アリガトウ。

(おわり)

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