アーカイブス・ヘッダー
     

サッカーマガジン 1988年9月号

欧州選手権の技術と戦術
なぜオランダが勝ち
        ソ連は敗れたか!?     (2/2)    

準決勝―ソ連のすばやさ
 ハンブルクの準決勝を見た翌朝、シュツッツガルトに飛び、もう一つの準決勝を見た。ソ連対イタリア。6月22日午後8時15分からネッカー・スタディオン。雨模様で始まり、試合途中でかなりの土砂降りになった。 
 ソ連はプロタソフを最前線に立てて縦パスの逆襲速攻を狙う。これは東欧のチームのお家芸である。ただし、かつての東欧の速攻と非常に違うのは、前線のプレーヤーの足技が鋭いことである。縦のパスの早さとそれに合わせて走る速さに加えて、ボールを扱うすばやさがすばらしい。プロタソフの速さと足技はひときわ目立った。
 ソ連の守りは、体力にものをいわせた集中守備だった。 
 ボールを取った相手の選手のところに、中盤で、すばやく寄ってチェックする。1人だけでなく、2人、3人と集中してボールを奪い取ろうとする。 
 イタリアは最初はソ連の体力まかせの守りとスピードにとまどっていたが、次第に慣れて守りは浅く網を張って速攻を食い止め、攻めは中盤のジャンニーニとドナドニからの攻めでいい形を作った。右サイドで守備ラインから攻め上がるベルゴミとドナドニとのコンビもよかった。 
 ところが勝負は後半のなかばに、あっけなくついた。 
 60分、出足の早い守りでインターセプトして右サイドからの逆襲の速攻で攻め込み、リトフチェンコがシュート、一度相手に当たってはね返ったボールを再度拾って決めた。この得点ではリトフチェンコの足技のすばやさが目立った。とくにはね返ったボールをすぐ拾い、相手をかわしてシュートした反応はすばやかった。それまでの形勢からみて、1点差ならまだまだイタリアに反撃のチャンスがあると思えたのだが、ここでイタリアが反撃を焦ったのが良くなかった。 
 2分後にこれも逆襲で今度は左からのオープン攻撃。ザバロフが左からゴール前へ入れたゴロのボールにプロタソフが走り寄ってダイレクトでシュートした。 
 この場面では、ザバロフのパスが印象に残った。左からすばやいドリブルで攻め込み、もう一歩持ち込んで左足でセンタリングするところを、その一つ前のタイミングで右足のアウトですばやく中にいれた。 
 おそらく、もう一歩持ち込んで左足でけっていたら、ゴールキーパーに狙われていただろう。右足のアウトサイドでけったために、守る方は、センタリングのタイミングを読めなかったのだと思う。
 2対0になって、試合はもうおしまいだった。気落ちした若いイタリアには、チームを立て直して反撃する気力がなくなっていた。
 結果が出てみると、ソ連の試合ぶりはめざましいもののように思えた。試合の最初から最後まで、休みなく走り回り、ボールのところに集中して守り、ボールを奪うとしゃにむに前線へ走った。そのスピードは衰えを見せなかった。 
 しかし、そこのところにソ連の落とし穴があったのではないか。
 ソ連の2点の決め手となったのは、リトフチェンコとザバロフの足技と判断の良さである。体力とスピードは、そのプレーが出るまでは余りにも効率悪く使われていたのではなかったか? 
 この試合から決勝戦を占うには、割引きして考えなければならない要素がいくつかある。 
 まずソ連の体力が、決勝戦でも同じように発揮できるかどうかである。
 ソ連は予選リーグから同じように体力とスピードにものをいわせて戦ってきたという話だった。その体力とスピードが準決勝まで続いたのは驚異的である。 
 しかし、これは大会の期間が、ワールドカップに比べて短いことによるのではないだろうか。ソ連の第1戦は6月12日だったが。それから11日間に4試合を重ねてきて、最後に強敵に当たるときに、同じようなペースで試合ができるだろうか。 
 それにオランダは準決勝から決勝までに中3日あり、ソ連は2日しかないというハンデもある。 
 また、イタリアが平均年齢24歳の若いチームだったことも考えに入れる必要がある。
 イタリアは、スピードのソ連を相手に気負い立って、ボールを奪うと、同じようなテンポで、すぐに攻めを仕掛けて行った。そして1点を先行されると、焦ってすぐに反撃に出ようとした。それがソ連の速攻を招く結果になった。 
 だが老練なチームなら、ソ連を自分のペースに巻き込んで試合をするはずである。オランダの監督はミケルスなのだから、そこには何か策があるはずである。

決勝―スーパースターの役割
 決勝戦は6月25日午後3時30分から。
 会場は14年前にワールドカップ決勝戦が行われたミュンヘンのオリンピッシエ・スタディオンである。 
 ソ連の速攻を食い止めるために、オランダがどのような策をとるか――これが一つの焦点だ。 
 オランダの守りは、こうだった。 
 守備ラインは、ロナルド・クーマンをリベロに、相手のツートップをライカールトとファンティヘレンで抑えている。 
 守りの右サイドにファンアーレ。左サイドにミューレン、これは中盤から下がって来る。 
 味方が攻めに出ているとき、守りは4人が横一線に浅いラインを引いている。そして極端にラインを前に押し出している。ハーフラインよりも前に出ていることさえある。これは、ソ連が逆襲の速攻を仕掛けようとしてもオフサイドになるようにするためである。 
 守備ラインが前に出ると、守備ラインとゴールキーパーの間ががら空きになる。そこはゴールキーパーが思い切って飛び出して守る。ペナルティーエリアの外に飛び出して守った場面が何度もあった。 
 この守りはミケルス監督が1974年のワールドカップのときに使った戦法と同じである。ただ違ったのは、この決勝戦では、14年前のトータル・フットボールの守りの特長だった集中守備を使わなかったことである。 
 ボールを持った相手に3人、4人と守りを集中して圧迫すれば、相手を追いつめることはできる。しかし相手が早くボールを離して逆サイドあるいは裏側に回すと、人数を集中していただけ手薄になっているから速攻を食いやすい。だから相手の攻めを遅らせるように間合いを取って、まず出足を止めるところから始めたわけである。 
 この守りが成功して、ソ連は得意の速攻をあまり出せなかった。逆に攻めではオランダがソ連の集中守備の裏をしきりにかいていた。こうして試合のテンポは終始、オランダのものだった。 
 ソ連が体力とスピードにものをいわせる自分たちのペースを出せなかったのは、つまりオランダの作戦が成功したからである。そして試合のテンポが自分たちのものになるように、チームをリードしていたのは、今回の大会のスーパースターのフリットだった。
 前半終わりごろの34分、オランダはコーナーキックから先取点を挙げた。フリットが攻め込んだのに対するファウルからゴール正面でフリーキックがあり、これをフリットが守りの壁の上をカーブをかけたキックで巻いて直接狙った。それをソ連のゴールキーパーのダサエフがみごとにはじき出した。このあたりの攻防は、実にすばらしかった。
 得点はそのあとのコーナーキックからである。コーナーキックをソ連が一応しのいで、左サイドに出し、そのまま守備ラインを上げかけたところで、オランダがボールを拾ってフリットのヘディングにつながった。 
 ソ連にとって不運なところもある得点経過だが、欧州最優秀選手であるフリットがチャンスを作り、そのフリットが決めたところが、偶然があるにせよ面白い。 
 後半にはいって間もなく、54分の2点目ではフリットがおとりの役になった。 
 後方でファンティヘレンがインターセプトして左サイドのミューレンに渡したとき、フリットはフィールド中央をゴールに向かってまっしぐらに走った。ソ連の守りが2人、それに引きずられてマークした。 
 ミューレンのセンタリングは、フリットの頭を越えて右サイドに飛び、走り込んだファンバステンが、奇跡とも思えるようなむずかしいボレーシュートを叩き込んだ。 
 このゴールは、ファンバステンの得点感覚とシュート技術が脚光を浴びていいものだったが、ゴール正面に走り込んだのが、スーパースターのフリットでなければ、ソ連の守りが、そこに集中してファンバステンをあれほどフリーにしなかったかも知れないし、ゴールキーパーももっと思い切って飛び出したかも知れない。 
 とにかく、この得点でもフリットが一定の役割を果たしたことは確かである。大きなタイトルを取るにはスーパースターが必要である。 
 一部の人はタイトルを取った結果、スターが生まれたように主張するが、現実にはスターがいるから夕イトルが取れるのだ。 
 1986年のワールドカップでマラドーナのアルゼンチンが優勝したように、今回もフリットのいるオランダが優勝した。 
 ソ連には敗れる原因があり、オランダには勝つべき要因があったのだが、それを締めくくったのは、やはりフリットだった。

前ページへ


前の記事へ
アーカイブス目次へ
次の記事へ

コピーライツ