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サッカーマガジン 1987年1月号

短期集中連載★強豪チーム技術分析
<5>ソ連
キエフ中心で
 スピードとチームワーク生かす     (1/2)

 メキシコ・ワールドカップの前半戦に、色あざやかな花火を打ち上げたチームが二つある。ソ連とデンマークである。この2チームの見事な色彩に目を奪われて「これこそ86年の新しいサッカーだ」と後半戦での活躍を期待した人たちも少なくなかった。しかし両チームとも後半戦にはいると決勝トーナメントの1回戦であえなく姿を消し、夜空に消えた大輪の花火のように、その思い出だけがあざやかに残った。
 この二つのチームには、いくつかの共通点がある。 
 @スピードにものをいわせる攻撃のチームだった。
 A前線にすばやい足わざとシュート力を持つ気鋭のストライカーを登場させた。
 B両サイドのウイングのスペースを使った攻め方に新しいものを持っていた。
 C個人のひらめきをチームプレーの中で生かすことを狙っていた。
 Dワールドカップの最初から、持っているすべての力を発揮しようとした。
 もちろん似ていない点もたくさんある。デンマークは個人のテクニックの良さに伝統のある西欧のチームであり、ソ連は速攻のチームプレーに特徴のある東欧のチームである。共通点よりも相違点の方を多く数えあげることはむずかしくない。 
 しかし、もしこの2チームの中にサッカーの未来を探るつもりであれば、相違点よりも共通点の方に注目しなくてはならない。 
 ソ連は、スピードとチームプレーの側からひらめきとテクニックを求めようとした。一方、デンマークは個人のテクニックとひらめきの側からスピードのサッカーを求めてきた。そこに共通の特徴が生まれた理由があった。ワールドカップの前半戦で、この2チームが人びとを魅了したのは、その共通点の新鮮さのためである。ともあれ、魅力あふれるこのチームの戦いのあとを、まずソ連からたどってみることにしよう。

ハンガリー戦の大量点
 ソ連とデンマークが、1次リーグで一躍注目を集めたのは、ともに強豪相手に予想外の大勝を収めたからである。ソ連は第1戦でハンガリーに6−0で完勝、デンマークは第2戦でウルグアイに6−1で勝った。 
 サッカーのボールは、どんな方向にでも転がるので、互角とみられた勝負でも、そのときの拍子で意外な大差になることがある。したがって大勝したからといって「すごい実力だ」と、にわかに過大評価することはできない。とはいえ、たとえ相手の守りのミスや試合の展開に恵まれたものであっても、大量点をあげるのはそうやさしいことではないのだから、そこには何か新しい力があったことも考えなければならない。 
 さて、ソ連が第1戦でハンガリーからあげた6点を検討してみよう。 
 ハンガリーとの試合は6月2日、場所はイラプアトだった。1次リーグC組ではフランスが断然の優勝候補、カナダは格下と見られていたから、ソ連とハンガリーにとっては、この試合が、後半戦に勝ち進むためにもっとも大事な試合だった。したがってともに、第1戦に照準を合わせて、ここでまず全力を出そうと準備をしてきたに違いない。このことは大差の試合になった背景である。 
 開始2分にいきなり右サイドのフリーキックから先制点がはいった。ラッツの左足のキックがゴール前にこぼれたのをヤコベンコが押しこんだものだが、ハンガリーにとっては立ち上がりのまだ態勢がととのわないうちに不意をつかれた感じだっただろう。
 続いて4分に2点目がはいる。これは中盤のアレイニコフの約30メートルのロングシュートである。ハンガリーが守備ラインを浅くしてオフサイドをとろうとしたのが裏目に出た形だった。24分の3点目は、ペナルティーキックである。 
 こうしてみると前半の得点は、第1戦の立ち上がりに、いきなりエンジンを全開させたソ連の力強い攻めが、ハンガリーの守りの乱れを誘ったものといえるだろう。ただし、この3点は、その後にソ連のサッカーの評価を高めた新鮮ではつらつとした攻めによるものとは違っていた。 
 ソ連のあざやかな得点は後半である。ハンガリーも、この試合にはぜひ勝たなければならない立場だったから、前半の不本意な失点を取りかえすために。後半は無理をして攻めに出なければならなかった。そのため守りがおろそかになり、その裏をついてソ連の3ゴールがはいった。 
 後半20分、ヤコベンコの中盤で2人を抜いて一気に攻めあがった長いドリブルから、フルスピードでゴール前に走り込んだヤレムチュクのシュートが生まれた。28分にはヤレムチュクとイェフツシェンコの壁パスによる中央突破、さらにその5分後には、GKダサエフに始まった逆襲に、たちまち全員が呼応してザバロフとアレイニコフがドリブルをつないで一気に攻めこみ、ロディオノフのゴールを生んだ。 
 この後半の3点はいずれも、スピードと個人技をチームプレーに組み合わせたみごとな攻めだった。

ドリブルを生かす速攻
 第2戦のフランスとの試合は1−1の引き分けだった。6月5日、場所はレオン。すでに強敵のハンガリーに大勝しており、残りは比較的弱いカナダだから、この引き分けはソ連にとって良い結果だった。 
 試合の内容も互角の攻め合いですばらしいものだった。中盤はフランスが多く支配していたが、ソ連はスピードで対抗しシュート数は多かった。とくにヤコベンコとザバロフの速いドリブルがきいていた。 
 ここで、ソ連のスピードと攻めのシステムについて説明しておこう。スピードによる攻めは、東欧サッカーのお家芸だが、この場合、スピードという言葉には三つの内容がある。 
 一つは逆襲のすばやさ、つまり守から攻への切替えのすばやさだ。これは味方の一人がボールを取ったときの、他の味方のスタートの早さと、前線への球出しの早さが組み合わされたチームの攻めのスピードだ。 
 次にコンビネーションのすばやさがある。これはドリブルをしないで、ダイレクトパスのパスアンドゴーを繰り返す攻めで代表できる。 
 そして個人のドリブルの速さがある。このメキシコ大会のソ連の攻めは、個人のドリブルの速さを、巧くチームのスピードの中に生かしたことに特徴があった。そして、この特徴を生かすために、独特の布陣をとっていた。 
 この布陣(システム)を、ツートップあるいは4・3・3といった言葉で表現するのは適当でない。というのは、前線の両サイドの選手は、ウイングともいえるし、サイドにいる中盤の攻撃的プレーヤーともいえるからである。 
 トップのストライカーはベラノフで、右ウイングのヤレムチュクと左ウイングのラッツが前線にいるとすれば、速いドリブルを武器とするザハロフとヤコベンコは、スリートップのすぐ後ろの第2線にいる形になる。そして両ウイングが下ってきてできるスペースに、ベラノフが動き、そこヘザバロフかヤコベンコがドリブルで進出してくる。 
 両ウイングの2人が中盤に下がりぎみになっているときは、ザバロフが前線に進出してツートップの形になる。ヤコベンコからの配球で、両ウイングの前線への進出がチャンスを作ることが多い。 
 フランスとの試合では、ザバロフとヤコベンコが、第2線からドリブルで攻めこむ形が多かった。この攻めが得点に結び付かなかったのは、フラシスの中盤のティガナとフェルナンデスの巧妙で柔軟な守りがあったからである。それがなければ、フランスの守備ラインはずたずたにされていたに違いない。 
 結局、ソ連の得点は、フランスの守備ラインを攻め崩すことができないまま、後方からのラッツのロングシュートだった。後半の8分である。フランスもソ連の守りをなかなか攻め崩せなかったが、後半16分に縦パスの逆襲で同点にした。ソ連の守りは、大会随一のゴールキーパーのダサエフと、左からの攻め上がりを得意とするデミヤネンコを中心に手堅かった。とくにタックルの巧さと強さは目立っていた。 
 6月9日にイラプアトで行われたカナダとの試合は2−0。すでに後半戦進出が決まっていたので、この試合では、それまで控えだった選手を先発させた。復活を期待されていたスーパースターのブロヒンとソ連リーグの得点王のプロタソフは、ともに、この日の試合だけ先発だった。

成功したディナモ・キエフ中心
 大スターのブロヒンと前評判の高かった新星プロタソフが、大事な試合では控えのメンバーでしかなく、先発に起用されたのはカナダ戦だけだった――ということについては、もう少し背景の説明が必要だろう。
 メキシコに登場したソ連チームは欧州カップ・ウィナーズ・カップに優勝したディナモ・キエフの選手が主力だった。いや、ほとんどディナモ・キエフそのものだったといってもいい。 
 決勝トーナメント1回戦のベルギーとの試合では、先発メンバー11人のうち9人がディナモ・キエフである。つまり、ディナモ・キエフに世界的なゴールキーパーのダサエフ(スパルタク・モスクワ)と中盤の守備を担当したアレイニコフ(ディナモ・ミンスク)を補強したチームだった。 
 ソ連代表チームがディナモ・キエフ中心になったのは、実は大会の直前である。前の年の1985年のワールドカップ欧州予選第6組の試合では、ディナモ・キエフの選手で終始使われたのは守備のデミヤネンコだけ、ほかに先発で使われたのはベラノフが1度、ベテランのブロヒンが2度あるだけだ。故障がちだったブロヒンは別としても、キエフの攻撃力は無視されたといっていい。 
 そのチームの構成は、ワールドカップ開幕の直前にがらりと変わった。その直接の原因は、この年にはいってからの強化試合でスペイン、メキシコ、イングランド、ルーマニアを相手に4連敗したことだろう。中でも3月26日にイングランドに0−1で敗れ、ナショナルチームのホームゲーム18連勝がストップしたのはショックだった。この試合ではディナモ・キエフの選手は交代で出たブロヒンを含めて5人だった。
 ワールドカップ開幕3週間前の5月6日にフィンランドとの強化試合に0−0で引き分けたあと、ソ連サッカー協会は突然、マロフェエフ監督を解任した。後任は、5月2日に欧州カップィナーズ・カップで優勝したばかりのディナモ・キエフの監督ロバノフスキーのナショナルチーム復帰だった。
 こうして、大会直前になって、ソ連はナショナルチームをディナモ・キエフ単独主体に切替えたのだった。敵前旋回といっていい大胆な方針変更だった。 
 この方針変更は、ソ連代表チームをどう変えただろうか。 
 攻撃的なサッカーを主張していた点では、マロフェエフ前監督も、ロバノフスキー新監督も同じである。しかしディナモ・キエフの方は、個人のテクニックとインテリジェンスをより重視するチームだった。そして新しいソ連ワールドカップチームの攻めの中心は、ディナモ・キエフのインテリジェンスを代表するヤコベンコだった。 
 ソ連の守備ラインの中心だった31歳のチバーゼ(ディナモ・トビリシ)は、メキシコ入りしたあと、けがのためはずれた。 
 33歳のブロヒンも、キエフの選手ではあるが主力にはなれなかった。ブロヒンには左足太もものけがという理由があった。 
 しかしその裏には、メキシコの暑さと1カ月にわたる大会が30歳を越えた2人に厳しすぎることを考慮に入れて、あえてスーパースターをはずし、21歳のヤコベンコに、のびのびとアイデアを発揮させたいという狙いが秘められていたのではないだろうか。そうだとすれば、その狙いはあざやかに成功したといわなければならない。
 もう一つ、ソ連リーグ得点王のプロタソフにも触れておこう。 22歳のプロタソフは前年、ドネプル・ドネプロペトロフスクで35点をあげ、ソ連リーグの個人得点記録を35年ぶりに書き変えた。その年の暮に左足のももの付け根の手術をしてしばらく休んでいたが、4月に復帰し、ワールドカップチームの切り札として大きな期待を集めていた。 
 しかし、メキシコでは、この若い大物もレギュラーにはなれなかった。身長1メートル85の長身で、ヘディングが強いだけでなく、動物的なゴール感覚の良さも評価されていたのだが、そのポジションにはディナモ・キエフのベラノフが使われた。1メートル70と小柄だが俊敏で技巧的なストライカーである。ロバノフスキー新監督の考え方が、ここにもうかがわれると思う。

 


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