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サッカーマガジン 1987年1月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

個性は各チームで伸ばせ!
読売ク連覇の功労者千葉進監督を悼む

ペルドン!宇野君!
東海大が関東大学リーグで優勝 監督に必要なのは経験と実績だ

 メキシコ・ワールドカップ決勝戦でアルゼンチンが勝ったあと、アステカ・スタジアムのスタンドに「ペルドン!ビラルド! グラシアス!」とスペイン語で書いた大きな横幕が出た。テレビにも映っていたから、ご覧になった方も多いだろう。
 ペルドンは「ごめんなさい」の意味である。大会の前にアルゼンチンの国内では、ビラルド監督に対して手厳しい批判が多かった。 ところが、そのビラルド監督の率いるアルゼンチンがマラドーナを押したててぐんぐん勝ち進み、とうとう世界一になった。そこでファンが「これまでの悪口は間違っていました。ごめんなさい」とあやまったわけである。そして優勝してくれたことに対してグラシアス、つまり「ありがとう」と付け加えたわけである。
 ところで、60周年を迎えた関東大学リーグで東海大学が優勝した。2部から昇格して1年目の快挙だった。 
 この東海大学の宇野勝監督については思い出がある。
 宇野君(当時は若かったから君づけである)は、東京教育大学(いまの筑波大学)を卒業すると西ドイツに、サッカー留学した。ケルン体育大学の指導者の講習を受けて、向こうの公認コーチの資格をとろうという志である。そして1年間勉強して、ちゃんと資格をとって帰ってきて、読売サッカークラブのコーチになった。
 さて、そのとき、ぼくはいささか心配した。
 公認コーチの資格制度があるのは勉強していいコーチになってもらうためである。しかし逆は必ずしも真ならずで、勉強してコーチの資格をとったからといって、たちまちいいコーチになれるわけではない。お医者さんになるには国家試験を受けて医師の免許をとらなければならないが、国家試験に通ったからといって名医というわけにはいかない。早い話が、患者は合格ほやほやの若いお医者さんに手術をしてもらうのは願い下げで、経験と実績のある町のお医者さんの方を信用する。サッカーのコーチも同じで、ライセンスよりも経験と実績である。
 以上のようなことをぼくは当時、サッカー・マガジンに書いた。必ずしも宇野コーチを念頭に置いていたわけではなく、そのころ同じような立場のコーチが続々出てきそうな風潮があったから警鐘を鳴らしたつもりだった。
 ところが多摩丘陵の方からの風の便りによれば、読売クラブのコーチの集まりかなにかの席で、ご本人が「これは、ぼくのことらしいな」と言ったのだそうである。
 その後、宇野コーチは、日本サッカー協会に勤めたあと、東海大学の先生になり、まだ歴史の浅いサッカー部を率いて関東大学リーグ2部、1部と押し上げて優勝した。サッカーの指導者として経験を積み、最初の実績を作ったわけである。 
 むかし書いたぼくの記事が間違っていたとは思わない。しかし当時、意気盛んだった若いコーチの卵の心を傷つけたことに対していま「ペルドン」と申しあげる。そして東海大学の優勝に「グラシアス」という立場にはないが代わりに心から「おめでとう」と付け加えたい。

愚かな週一練習会
選手の個性と創造力は、所属の各チームで伸ばさなければ
 
 日本代表チームの石井監督を解任して、日本サッカー協会首脳部は総辞職せよ――と先月号に書いたけれど、協会の方にはさらさら、そんな気持はないようだ。それどころか、不退転の決意をもって、石井体制でソウル・オリンピックヘ突き進むらしい。11月11日に「日本代表の強化について」という文書を発表して、日本リーグのシーズン中も週に1回、毎週水曜日に代表選手を集めて「週一練習会」をすることを明らかにした。 
 「なんと愚かな」と、ぼくは思う。 
 案ずるに、ソウル・アジア大会のときにチームの和がうまくとれなかった。だから国内シーズン中も、週に1回くらいは集めて仲間意識を作ろうというんではないか。しかしこれは現実的でないアイデアである。 
 日本のサッカーの最大の欠点は、選手を集めて、長い間いっしょに練習しないと、チームの形をなさないことである。「森ファミリー」とか「石井一家」と呼ばれるようにならないと、国際レベルで戦えるチームが作れないことである。それで毎度そんなことを繰り返しているから、プロフェッショナル・レベルのチームは、いつまでたっても作れないわけである。 
 この状況から抜け出すには、選手のひとり、ひとりに個性と創造力がなければならない。合同練習をしないで、いきなり集められても、それぞれの選手がお互いにチームメートの能力と個性を見抜き、アドリブでチームプレーを作り出せるようでなければならない。
 そういう個性と創造力が育つのは日本代表チームの合同練習の場ではない。それぞれの所属チームの中である。中には個性を伸ばすどころか殺してしまうようなチームもあるだろうが、所属チームは、いろいろだから、いろいろな個性の選手が育ってくる可能性は十分ある。 
 だから、できるだけ各チームに十分な時間を与えるようにしなければならない。週に1度、チームから選手を取り上げ、ちゃちな練習試合をするのは、角を矯めて牛を殺す結果になりかねない。 
 水曜日にパッと選手を集め、パッと試合をし、パッと解散する。そういうことができるようであれば結構である。そういうやり方で、ちゃんとした試合ができる能力のある選手がそろえば前途は明るい。ヨーロッパでは、国内リーグのシーズン中でも、水曜日に代表チームの国際試合がある。 
 ただし、欧州各国の国際試合は毎週やるわけではない。また練習ではなく公式の国際試合である。パッと集めて公式の国際試合ができる能力を選手たちが持っているから可能なことである。そして真剣な公式試合だからこそ、そういう能力が磨かれる。 
 日本代表チームの「週一練習会」の第1回で日本代表は東海大に3−1で負けた。「なんとぶざまな」と、ぼくは思う。「学生相手というので最初は真剣勝負の気持がなかったようだ」という石井監督の弁解が報知新聞に載っていた。そんな気持の試合を毎週やってもムダである。 

千葉進監督のこと
若くして世を去った読売クラブ連続優勝の功労者を悼む! 

 読売サッカーグラブが2シーズン連続優勝したときの若い功労者、千葉進君が、さる11月12日に亡くなった。35歳の若さだった。 
 1983年に読売クラブが、クラブ組織のチームとして初めて日本リーグに優勝したのは、もうほとんど千葉監督の功績だった。当時「監督代行」という肩書きだったが事実上「監督」だった。これには少し入り組んだわけがあった。 
 その前の年に読売クラブの監督が成績不振を理由に辞任を申し出た。そのとき選手たちの間に千葉コーチが非常に人望があり「後任には千葉さんを」と望む声が強かった。 
 これに対して「それは筋違いではないか」という意見がクラブを運営する側から出た。選手たちの好き嫌いで監督を変えるような例を残すのはよくないという考えである。 
 しかし、その人柄と力量からみて千葉君が将来、監督になることは明らかである。そこでここは間にひと呼吸置くことにしたい。そのつなぎには外国から監督を呼ぼうということになった。外人コーチは契約期限が切れれば帰国するから、そのあとスムーズに千葉監督に移行できる。千葉コーチ自身は外人監督から学ぶところがあるはずで、一石二鳥である。こうして千葉君は「監督代行」になり、そのあと西ドイツからグーテンドルフ監督が招かれた。 
 このいきさつに選手たちが「千葉さんを男にしよう」と燃え上がってリーグ優勝をかちとったことは、当時、新聞などに紹介されて、よく知られている。 
 ところが外人監督の2年契約が切れるその年に、健康診断で千葉君の病気が発見された。見た目には悪いとは思えなかったのだが、専門医の診断は深刻なものだった。千葉君はいつもと変わらぬ笑顔でグラウンドに立っていたが、同じ病気で若くして亡くなった女優の夏目雅子さんについてのテレビ番組を、家でじっと見ていたという。その話を聞いて、僕は耳をふさぎたい気持だった。 
 グーテンドルフ監督が、シーズン半ばで任期満了となったとき、その後任を決めるのがまた問題だった。千葉コーチが元気であれば、その昇格でいい。病気の回復が見込めるのであれば、休んで療養に専念してもらうべきだろう。しかし事情はそうではなかった。 
 クラブの首脳部は当惑したが、千葉コーチは自分から「ぼくにやらせて下さい。いま引き受けなければ、ぼくの生涯に悔いが残ります」と申し出たという。 
 入院中の病院からグラウンドに通った千葉監督は、2月1日、国立競技場でのフジタとの試合の途中にベンチを去り、再びグラウンドに立つことはなかった。 
 初冬の空にいわし雲が美しく輝いていた日、多摩丘陵の高層アパートに囲まれた中で、千葉名誉監督の告別式があった。 
 与那城ジョージ監督は「選手をやめたあと千葉さんの下でいっしょに働けると思っていたのに」と弔辞を読みながら途中で男泣きに泣き、あとが続けられなかった。


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