協会首脳部の大責任
石井監督を解任して、サッカー協会首脳部は総辞職すべきだ!
「これがブラジルだったら…」とぼくはいった。「日本代表チームの石井義信監督は即刻解任、日本サッカー協会の首脳部は総辞職だ」
ソウルのアジア競技大会での敗戦には、ぼくもいささか頭にきた。相手が強過ぎたとか、不運だったとかの弁解は一切無用だ。あとのことも心配しなくていい、責任だけとってもらいたいという気持である。
「そうだ。もともとは、お前たちジャーナリストが悪い」
愛国心に燃える友人は、ほこ先をぼくの方に向けてきた。
「お前さんの、ここがブラジルだったら、というせりふは聞きあきたよ。ブラジルでなくったって、日本だって代表チームの監督はすぐクビだ。そして10年以上かかって、なに一つタイトルをとれないサッカー協会は会長、専務理事以下は総入れ替えだ。日本はジャーナリズムが甘いからダメなんだ。ここがブラジルだったら、新聞は連日協会批判の大キャンペーンだ」
たしかに友人のいう通りで、日本のスポーツジャーナリズムは、露骨な個人攻撃をしない。終わったことは仕方がないと、大所高所からかっこうのいいことをいうだけである。ぼくも、日本代表がタイトルマッチで敗れるたびに「これがブラジルだったら…」とよその国にかこつけて皮肉をいうのがせいいっぱいだった、と反省した。
「うむ、たしかに、われわれも甘かった。こんどはきびしくいこう」
ぼくは心を鬼にして、本気でこのページで、日本サッカー協会に対して、石井監督の解任と首脳部の総辞職を要求することにした。
ぼくは個人的には石井監督になんのうらみもない。石井監督の手腕と過去の実績も十分に評価している。今後引き続いて監督をやっていれば、来年のオリンピック予選で成功する可能性も十分あると思う。
しかし、である。
とにかく、大事な大会で力を出せなかった責任は、やはりそのときの監督にとってもらうしかない。イランもクウェートも日本より上位のレベルだったことはたしかだろう。客観的にみれば負けたのはやむを得なかったのかもしれない。だが、少なくとも、このどちらかに勝つことは、予選リーグの組み合わせが決まった時点から、日本代表チームの最低の目標だったはずである。それを達成できなかったのだから、やめるべきである。
ところで、これまでこういうケースでは「監督は辞任すべきだ」というのが、日本のジャーナリズムの筆法だった。しかしここでは「監督を協会が解任すべきだ」とぼくは主張する。
理由はこうである。
石井監督が自ら辞任すると、あたかも今回の敗戦の責任は、監督個人にあるような形になる。しかし、ぼくの考えでは、今回の敗戦は監督個人の責任というよりも協会の責任である。
ワールドカップ予選で敗れたあと、いったん森孝慈監督の留任を決めておきなから、あとになってやめられてしまった。そのために急に石井監督に登板してもらわなければならなかった。そんな、いきさつだから、本当の責任は当時の協会首脳部の不手ぎわにある。
そこのところを、はっきりさせるために、監督は協会の責任で解任し、協会の首脳部自身も引責総辞職すべきだと思うわけである。
もし監督だったら…
プロの奥寺にすべてを賭けて勝負する手はなかっただろうか!
「ところで、お前さんが日本代表チームの監督だったら、どういう手を打ったかね」
友人が意地の悪い質問をしてきた。
実は、アジア大会での日本代表チームの戦いぶりを、ぼくはほとんど知らない。大部分の読者の皆さんと同じように、新聞の記事とテレビのスポーツニュースの断片で見ただけである。
したがって、石井監督が現地でとった戦法を論評することはできない。これは韓国に行った練達の専門記者がきびしく論評してくれるだろう。わがサッカーマガジンも、編集長自身が出かけたから、この号に載るはずの観戦記を楽しみにしたい。
というわけで、友人の質問へのぼくの答えは、現実の日本代表チームのアジア大会での戦いぶりとは何の関係もない一つの空想である。
我れもし監督なりせば……
「まず監督を引き受けるときに、ソウルのアジア大会だけが目標だと宜言するね」
なぜなら、森孝慈監督が急にやめたあとに起用されたリリーフ投手なんだから、とりあえず当面の目標をしのぐことを、自らの任務とするほかはない。
さて残された時間はあまりない。
5月から8月までの4カ月間である。
選手たちは前の年のワールドカップ予選では最後までよくがんばった。最後に韓国に敗れはしたが、森孝慈監督はいいチームを作った。時間が少ないのだから、森監督のチームの骨格をそのまま残して活用しなければならない。
これに付け加える新しい材料はないか。時間がないのだし、目標をアジア大会だけしぼっているのだから、将来を考えた若手起用は無理である。
一つだけ、すぐに役立つ新しい、大きな材料がある。それは西ドイツのプロから戻ってきた奥寺康彦選手だ。
そこでソウル大会は奥寺を中心に、奥寺に賭けて戦うことにする。そのために夏のムルデカ大会には、必ず奥寺選手を連れていく。奥寺がムルデカにいかれない事情はいろいろあるだろうが、日本サッカー協会が、それを解決してくれなければ監督は引き受けられない。
「ちょっと待った」
ここまで空想を話したところで友人がさえぎった。
「森監督のときのチームの中心は、攻めでは木村和司、守りでは加藤久だった。奥寺を中心にするとなると、その骨格をこわすことになる。いってることが首尾一貫してないね」
だから、そこが賭けである。うまくいくかどうかは分からなくても、何か新しいものを入れなければ、国際的なタイトルマッチでは勝てないのだ。森孝慈のチームの骨格と奥寺中心のアイデアを、どうしても両立させなければならないのだ。
「守りは加藤久が中心。守備ラインの顔ぶれは不動のものにする。金子久を入れるなんて考えない。中盤の中心は奥寺だから木村和司はウイングに使う。それに水沼貴史は、はずしたくないね。森孝慈のチームで伸びてきていたんだからな。フォワードに背の高い選手を並べて、ヘディングで勝負なんてアジアでも通用しないよ」
ここまでいったら友人もさすがにあきれた。
「やっぱり、お前は記者をやっていた方がいい。言ってることはみな結果論じゃないか」
日本サッカーの再建策
五輪予選のために、国内のサッカーを犠牲にしてはならない!
「アジアのサッカーをABCDに分けるとすれば、日本はCクラスだと思いますよ」
日本リーグのフジタ・サッカークラブの部長である下村幸男氏がこんなことを言っていた。
アジア大会に出場していた各国のチームの中で、実力ナンバーワンはイランだったという評判である。これにイラク、クウェートを加えた中近東勢、優勝した韓国がAクラス、あるいはBクラスの上の方、中国あたりがBクラス、いまの日本は、それよりも一段下に落ちたということだろう。
それでは、日本の属するCクラスにはどんな国があるのだろうか。
「インドネシアやシンガポールがそのあたりじゃないの」
友人はちょっと不安そうな表情だ。間近に迫ったオリンピック予選が心配になったからである。
オリンピック予選で、日本はまずインドネシア、シンガポール、ブルネイと当たることになっている。
東南アジアでは、かなりの実績があるインドネシアとシンガポールがアジア最低のDクラスであるはずはなく、日本がCクラスだとすると「これは、ひょっとすると危ないんじゃないか」という気がしはじめたわけである。
ぼくの考えでは、いまごろ、そんなことに気がつくのは遅すぎる。もともと日本と東南アジアのサッカーのレベルは同じ程度である。
条件が整って、地元で戦うときには、東南アジアのチームはCクラスではなくてBクラスの力を出すと思わなければならない。オリンピック予選はホームアンドアウェーだから、日本が向こうへ行ってやらなければならない試合もあるわけで、もともと油断はできないのである。
さてCクラスの日本は、このオリンピック予選を、どう戦うべきだろうか。
ぼくの独断と偏見はこうである。
第一に、Cクラスの日本には、本番のソウル・オリンピックを見通したチームを作って予選にのぞむ余裕はない。予選に勝つことがまず目標だから、一戦必勝の態勢でなければならない。つまり、その時点でのベストの顔ぶれで代表チームを編成して、最善の準備をして戦わなければならない。
第二に、Cクラスから脱出するためには、目先のことにとらわれずに、長い目でみて日本のサッカーの再建策を考えなければならない。そのためには日本のサッカーの基礎をこわすようなことをしてはならない。たとえばオリンピック予選のために日本リーグの日程を、むやみに変更したりするべきではない。
「お前の言うことは、いつも矛盾しているな。最善の準備をするためには日本リーグの日程を変更して、予選の試合の前には、日本代表チームが思う存分練習できるようにしてやらなけりゃならないんじゃないのか」
単純な友人には、ぼくの理論は高等過ぎて分からないようだ。
「日本代表選手は、日本リーグの試合の中で育ってくるんだぜ。選手が育ってくる畑を、その場その場の都合で堀りかえして、良い作物が育つわけはないじゃないか。畑をつぶさないで、畑のなかから、そのときどきで、いちばん良いものを収穫できるようにするのが最善の準備なんだ」
ぼくのへ理屈に友人は、分かったような分からないような顔だった。 |