フランスはプラティニを中心に、創造性あふれる華麗なプレーで多くの称賛を浴びた。参加24チームのなかで、フランスは一番、楽しさにあふれるアンサンブルをかもし出してくれた。だが、そのアンサンブルに、勝利の女神は微笑まなかった。プラティニにとって、ワールドカップは唯一、残されたタイトルだっただけに、メキシコを後にするプラティニの姿には、憂いがあった。プラティニとフランスの光と影を探ってみよう。
一人ひとりが個性のきらめく“宝石”
1986年のワールドカップ決勝戦が、かりにフランスとアルゼンチンだったら――幻想にすぎないことは分かっていても、想像するだけで楽しい夢である。
そのイメージは、色とりどりに咲き乱れる高原のお花畑だ。さわやかな風にほほをなぶられるプラティニ。ぬけるような青空を仰ぐマラドーナ。そんな気分のサッカーになるんじゃないかな、という気がする。
メキシコに集まった24のチームの中で、フランスは、いちばん楽しい、いちばんしゃれたアンサンブルだった。
一人ひとりのプレーヤーは、とりどりに個性のきらめく宝石である。
だが、宝石箱の中から流れ出るメロディーは、貴族や富豪の豪華なイメージではなかった。
それはパリの下町を流れる庶民の歌声、軽やかなシャンソンのイメージだった。
ときとして憂愁のかげがさすことはあっても、苦い思いが胸をかむことがあっても、それが人生、それがフットボール、思いのままにプレーを創り、思いのままに楽しもうじゃないか――そんな気分のサッカーが、あの野性のマラドーナを包み込んで戦ったら、どんな決勝戦になるだろうか。
これは、見果てぬファンの夢である。
この夢が、あと一歩で現実のものにならなかったのは、準決勝でプラティニのひらめきが光を失ったからだった。プラティニが光を失うとともにフランスは消え、決勝に進出したのは、荒あらしい西ドイツだった。
プラティニの輝きが、突然、なぜ消えたのか。
1986年のフランスを語るには、そこから話をはじめなければならない。
優雅で楽しいフランスを語るのに、あの嘆きの準決勝からはじめなければならないのは、いささか悲しいことである。
準決勝でプラティニはなぜ消えたか
1986年メキシコ・ワールドカップの準決勝は6月25日。フランス対西ドイツの試合は正午からで、会場はグアダラハラ市のハリスコ・スタジアムで超満員だった。
この試合は、世界の162力国にテレビ中継され、注目率は異常に高かった。
準決勝のもう一つの試合はアルゼンチン対ベルギーで、会場はメキシコ市のアステカ・スタジアムだったが、こちらの方は午後2時のキックオフのときには、11万人余りを収容するマンモス・スタンドがまだ、3分の2ほどしか埋まっていなかった。というのは、入場券を持っているファンは、2時間早く始まったグアダラハラの試合を、テレビの前に釘付けになって見ていて、スタジアムへの出足が遅れたからである。アステカ・スタジアムのスタンドが全部埋まったのは、ハーフタイムになってからだった。
それほど注目率の高かったフランス対西ドイツのテレビ中継だったが、大部分のファンのお目当てだったフランスのスーパースター、ミシェル・プラティニは、前半の15分過ぎから、ぱったりとブラウン管に登場しなくなった。
なぜか。
中盤のコンダクターであるはずのプラティニが、何を思ったのか、中盤を捨てて攻撃の最前線に立ち、そのためにフランスの中盤からの攻めの組み立てがむずかしくなり、したがって最前線のプラティニにボールが渡らなかったからである。
テレビのカメラは、主としてボールの動きを追う。ボールにさわらないプラティニは、ブラウン管に登場しなくなったわけである。
プラティニがブラウン管から消えたことは、そのままフランスがワールドカップから消えることにつながった。というのは、プラティニが中盤を放棄して最前線に張りついたことが、フランスの敗因だったからである。
プラティニは、中盤でプレーしてこそ世界の最優秀選手である。ボールを扱いながら広い視野で戦局の流れを読み、すばらしいタイミングと正確さでパスを送って敵の守りにほころびを作る。そこにプラティニの本領がある。
もちろん、ゴールゲッターとしても、プラティニはいいプレーをみせる。しかし、それは自らが中盤でチャンスを作り、他の味方を動かしておいて、ゴール前に現れたときである。まず中盤にいなくては、ゴール前でのプラティニはない。
そのプラティニが、なぜ、試合が始まって20分もたたないうちに、中盤を捨ててしまったのだろうか。これはメヒコ86の大きな謎の一つだろう。
プラティニが最前線に張りついたとき、フランスはすでに1点を先行されていた。
だから、プラティニの前線進出を敗因だとするのは、おかしいかもしれない。
しかし、このときのフランスの力をもってすれば、開始8分の1点をはね返すのは不可能なことではなかった。それまでに展開してきたようなサッカーをすれば、このときの西ドイツよりもレベルは上だったはずだ。
それだけに、なぜプラティニが早ばやと前線に出てしまったのか分からない。西ドイツの先取点は、ペナルティーエリアの外、やや右寄りの約25メートルのフリーキックからだった。マガトがけると見せて内側のブレーメに渡し、ブレーメの強烈なシュートが、ゴールキーパーの手をはじいてはいった。
西ドイツは、決勝トーナメント1回戦のモロッコとの試合でも、延長入り寸前の後半43分にマテウスの強烈なフリーキックで決勝点をあげている。だから西ドイツのフリーキックをもっと警戒すべきだった、という説もある。
しかし、こういうゴール前のフリーキックからの得点は、ペナルティーキックと似ていて、ある程度は運不運である。
だからフリーキックから1点をとられたのは仕方がない。残り時間は十分あったのだから、気にしないで、ふつうに渡り合って逆転を狙うべきである。
事実、1点を失ったすぐ後の14分に、フランスに同点のチャンスがあった。ティガナの突進が西ドイツの反則を誘い、そのフリーキックに合わせてプラティニが走り込んだ。そのシュートのはね返りをボッシが再びシュートしてはずしたが、こういう攻めを、いくらでも作ることができたはずである。
ところがプラティニは、この場面のすぐ後から最前線に張りついてしまった。
西ドイツのマンツーマンのマークはきびしい。広い中盤で、好き勝手に動き回るプラティニをつかまえるのはむずかしいが、ゴール前の狭い地域に張りついているプラティニをがんじがらめにしておくのは得意だ。最前線でのプラティニは、ほとんど身動きもできなかった。
プラティニが最前線に出たのはなぜか。
フランスのミシェル監督は、試合後の記者会見で「1点をとられたあと、やり方を変えようとしたが、うまくいかなかった」と、自分の責任であるかのように話している。
しかし、真相はやはり、プラティニ自身の判断だったのではないか。プラティニの心理的な問題、ひらたくいえば焦りが、判断を狂わせたのではないか。
焦りを招く心理的な要因は、いくつもあった。
4日前の準々決勝でフランスは、南米最強といわれたブラジルと、秘術を尽くした試合を展開した。プラティニは、ここで心理的なエネルギーを使い果たしていた。中3日の休養で多少取り戻したエネルギーは、1点を先行されたショックで、たちまち蒸発したのかもしれない。
攻撃の前線に立つはずのロシュトーが、ケガで控えにもはいれなかったのも影響しただろう。
この大会でロシュトーは出たり、出なかったり、という状態だったが、ロシュトーが出ているときのプラティニには、見違えるような精彩があった。
プラティニ自身にも足首の痛みがあったという。しかし、これは大きな要囚ではなかっただろう。
プラティニの心の奥底に、4年前の思い出は潜在していなかっただろうか。
スペイン大会の準決勝で、フランスは同じ西ドイツに2点のリードを追いつかれ、延長の激闘のすえPK戦で涙をのんだ。
その潜在意識が疲れ切った心身に働きかけ「前に出て点をとらなければ」という焦りを生んだのかもしれない。
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