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サッカーマガジン 1986年11月号

短期集中連載★強豪チーム技術分析
<3>ブラジル
すべての“悲運”を象徴した
       ジーコのPK失敗    (1/2)

 ブラジルは前回のスペイン大会で絶賛を浴びた“黄金の4人”のうちトニーニョ・セレーゾを欠き、ファルカン、ジーコも満足な体調ではなかった。スペイン大会のメンバーを軸に戦うというサンターナ監督の構想は変更を余儀なくさせられたが、それでも新しい選手の出現でブラジルは“王国”の底力をみせた。準々決勝のフランス戦は、ジーコのPK失敗という不運はあったが、優勝するにふさわしい実力のあることを証明したといえる。

フランスとの準々決勝は最高の試合
 メキシコ86のワールドカップで、ブラジルはもっとも力のあるチームだった。技術的にも、戦術的にも最高のものを持っていたし、大会の戦い方も間違ってはいなかった。 
 にもかかわらず、カナリア色のユニホームは準々決勝で姿を消した。ジーコの悲運が、ブラジルの悲運であった。もし、ジーコが完調だったら……。1986年のワールドカップは、まったく違ったものになっていたかもしれない。 
 ブラジルのサッカーファンは、1986年のワールドカップを、ジーコがPKを失敗した大会として、いつまでも記憶するに違いない。しかし、あのPK失敗はジーコ個人のミスでもなければ、ジーコ個人の不運でもなかった。あれはブラジルチーム全体の不運の象徴だった。 
 6月21日、グアダラハラ市のハリスコ・スタジアム。準々決勝のブラジル対フランスは、この大会の最高のカードだった。1−1で迎えた後半の29分、勝ち越しのチャンスのペナルティーキックがブラジルに与えられ、ジーコが当然のようにペナルティースポットに立った。 
 このペナルティーキックをジーコにけらせたのが、そもそもの間違いだったという説がある。ジーコは左ひざの故障上がりで完調ではなく、この3分前に交代出場したばかりで、心理的にもまだゲームに溶けこんでいなかったからである。事実、ペナルティースポットに最初にボールを置いたのはジーコではなくエジーニョだった。そこにジーコが歩みより、ボールを置き直して自分がけった。エジーニョが「けるのか」と尋ねたら、ジーコが「ける」と答えたのだという話もある。 
 しかし、ジーコにけらせたのが間違いだった――というのはまったくの結果論である。ジーコが過去にペナルティーキックをはずしたことはめったになかった。交代したばかりだから疲れてもいないし、冷静だったはずだ、ということもできる。 
 だが、結果は信じがたいものだった。ジーコのけったボールは、フランスのゴールキーパーのバツに叩きだされた。 
 ジーコのキックが弱かったというのも当たっていない。右を狙ったキックのコースは申し分なく、強さも悪くはなかった。バツの読みがぴたりだったということだろう。 
 この年の1月、テレ・サンターナが監督を引き受けてから、この瞬間までを振り返ってみれば、ジーコがここでペナルティーキックをけったのは当然だ、ということが分かる。なぜならばテレ・サンターナ監督は、このワールドカップをジーコに賭けていたからである。 
 ジーコのPK失敗は、この賭けの失敗を象徴していた。これはジーコが悪かったのでもテレ・サンターナが間違えたのでもない。ブラジルは不運だった、実に不運だったとしか言いようがない。 
 準々決勝のこの試合は結局、延長のすえ1−1の引き分けに終わり、PK戦でフランスがベスト4に残った。このPK戦では、ジーコは右にけって決め、この大会で非常な活躍を見せたソクラテスとジュリオ・セザールがはずした。ペナルティーキックがはいるかどうかは、つまるところは運である。 
 ジーコに賭けたブラジルの戦いの跡を振り返る前に、このブラジル対フランスの試合について少しばかり付け加えておこう。 
 この試合は、これまでのワールドカップの歴史のなかでも最高のものの一つだった。両チームとも個人の技術が高く、戦術能力がすぐれ、闘志にあふれていた。 
 試合そのものが一つのドラマであり、またこの大会全体を一つのドラマだとすれば、優勝争いに重要な影響を与えた大きなクライマックスだった。 
 すばらしい試合になった最大の原因は、両チームの個人の能力が、他のチームにくらべて一段と抜きんでていたことだろう。パスがくれば、つねにフィールド全体の流れを見ながら楽々とボールを扱い、数人の敵に囲まれていても、パスを受けに動く味方のもっともよい動きを見逃さない――そんな選手がそろっていた。それが流れるような攻守を作りだした基本だった。そういう意味で、ともに優勝するのにふさわしいチームだった。

常にジーコにかけたサンターナ監督 
 ジーコに賭けたブラジルの戦いを、テレ・サンターナが監督に指名された1月17日にさかのぼって振り返ってみよう。 
 テレ・サンターナに与えられた時間は4カ月半しかなかった。ワールドカップに優勝する準備をするには、これではあまりに短か過ぎる。 
 監督の指名が遅れたのは、ブラジル・サッカー協会(CBF)の会長選挙があったためだった。 
 ともあれ、新しい代表チームを作るには少なくとも1年間。できれば2年の時間が欲しい。4カ月半では、新しいチームを作ることは不可能である。したがってテレ・サンターナにできることは、古いブラジルを核として、できるだけ新しいブラジルを付け加えていくことだった。 
 テレ・サンターナが持っていた古いブラジルの核は、言うまでもなく、あの黄金の4人、クアトロ・オーメン・ジ・オーロである。 4年前のスペイン大会で、ブラジルはイタリアに敗れて2次リーグで姿を消したけれども、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの4人で構成するみごとな中盤は、世界のサッカー界をうならせた。これは、一つの新しいサッカーだった。この黄金の4人によるサッカーを作り出した当時のブラジル代表チームの監督がテレ・サンターナだった。 
 したがって、1986年のテレ・サンターナが、新しいチームの中心に、この黄金の4人を据えようとしたのは当然である。 
 とはいえ、二つの問題があった。一つは当然のことながら、スペイン大会から4年たっており、黄金の4人はそれぞれ4つずつ年をとってみな30歳代になっているということ、もう一つはこの4人がそれぞれけがを抱えていて、そろって完調というわけにはいかないことだった。 
 だから4年前と同じ中盤を再現することはむずかしい。しかし重要なことは、4人の中盤で攻守を組み立てるという4年前のやり方を、新しいチームでも軸にすることであり、また4年前の4人の中から、このやり方のリーダーを少なくともひとりは残すことである。そしてテレ・サンターナは、そのひとりとしてジーコを選ぶことに賭けた。 
 客観的にみても、これは当然の賭けだったが、ジーコはもともと左ひざを痛めていて手術が必要だという問題があった。しかし手術をすれば、リハビリテーションに時間がかかってワールドカップに間に合わないおそれがある。そこでここは、筋力トレーニングをしながらなんとか治療していく方に賭けた。 
 ジーコはしだいに調子を取りもどした。開幕1カ月前の4月30日のユーゴとの強化試合では、ペナルティーキックを含む3点をあげてハットトリックを演じた。この時点ではテレ・サンターナ監督の賭けは順調だった。 
 ところがその1週間後の5月7日のチリとの強化試合でジーコは、やっと治った左ひざをまたひねってしまった。ふつうなら、ここであきらめて登録からはずすところである。
 これは、むずかしい決断だった。ジーコをはずせば、チーム作りの構想は、また初めからやり直さなければならない。それには時間がなさすぎる。 
 完全に無理だというのならそうするほかはないのだが、ワールドカップは1カ月の長い戦いであり、後半戦までにはまだ1カ月以上ある。それまでには、なんとかなるかもしれない。 
 テレ・サンターナは、ここでまたジーコに賭けた。5月23日の最終登録のときジーコは22人の中にはいっていた。

1次リーグではソクラテスが中心
 1次リーグの最初の2試合には、ジーコはまったく登場しなかった。 
 第3戦の北アイルランドとの試合で、すでに2−0と差がついたあとの後半23分に、ソクラテスと交代して出てきたのが初めてである。これは明らかにジーコ自身の体調とジーコ中心のチームのテストだった。
 1次リーグでの選手起用を見てみよう。
 守備ラインは最初の2試合は右サイドのディフェンダーにエジソンを先発させている。このポジションは、もともと、攻め上がりの得意なレアンドロのはずだったが、レアンドロがメキシコに向けて出発する直前に突然、自分から代表をおりて空席になっていた。レアンドロがチームを去ったのは、レナトが代表からはずされたのに不満だったからだろうといわれている。今回のテレ・サンターナは、大会前からさまざまな不協和音に悩まされていた。 
 ともあれ、レアンドロの空席を埋めたのはまずエジソンだった。そのエジソンは第2戦のアルジェリア戦の前半10分に負傷して引っ込んだ。このときは中盤からアレモンが下がって、中盤にファルカンを入れている。 
 センターバックは若手のジュリオ・セザールとベテランのエジーニョの組み合わせ。この2人と、左サイドにはいった若手のブランコによる守りはすばらしかった。 
 ブラジルの守りは、例によって横一線のラインディフェンスだ。味方同士の連係で敵をからめとるようにして守るのが巧い。とくに今回は、中盤のアレモンとエウゾが守備的で、この網の目が細かく、粘っこかった。         
 この若手を主力にしたメンバーが、守備的過ぎるという批判があった。守りはよくやっているが、攻撃参加が少ないということだろう。 
 しかし、最初の2試合では、これは当然の策である。まず守りを固めて確実に勝ち点をあげ、次のラウンドへの進出を確実にしておくのが、優勝候補の戦い方だ。エースに期待しているジーコを、後半戦にそなえて温存しているのだからなおさらである。
 攻めの方では、最初の2試合はカーザグランジとカレッカのツートップで、後半なかば過ぎにカーザグランジがミューレルと交代した。カーザグランジは身長1メートル89の大男で、守りを固めて逆襲を狙うときに、前線に立てておくと相手に対して威圧感がある。 一方、ミューレルは足わざがよく、攻めの突破口を作るのに役立つが、守りには難がある。したがって最初の2試合は、守備的な試合をする狙いで、先発にカーザグランジを使ったのかもしれない。カレッカは速攻からの点取り屋で、これは終始不動のメンバーだった。
 ところで問題の中盤だ。 
 4年前の黄金の4人は半分以上、崩壊していた。イタリアから戻ったトニーニョ・セレーゾはけがのため、ついに最終メンバーにはいれなかったし、ファルカンも調子が戻らなかった。そこで中盤の守備的なポジションは2人とも若手になった。 
 攻撃的な中盤のうちの1人にはジュニオールを使った。もともと代表チームでは、左のサイドバックだが、攻撃の好きなプレーヤーでパスのセンスもいい。左のバックのあとを埋めたブランコが立派に責任を果たしたこともあって、このコンバートは大成功だった。
 そしてソクラテス。黄金の4人のなかでただ1人健在で、ジーコに代わってチームの大黒柱として奮闘した。1次リーグのブラジルはソクラスのチームだったといっていい。 
 それでも、第3戦と第4戦でジーコを後半のなかば過ぎからテストとして使ったとき、テレ・サンターナ監督は、ソクラテスを引っ込めた。最後に優勝を賭けて戦うときはジーコが柱になる――という読みからではないだろうか。

 


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