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サッカーマガジン 1986年9月号

短期集中連載★強豪チーム技術分析
<1>アルゼンチン
マラドーナを起点に奔放な攻撃を展開  (1/2)

 今月号から「短期集中連載」としてメキシコ・ワールドカップで優れたプレーをみせたチームの技術分析をお届けする。第1回目は、見事に2度目の優勝を飾ったアルゼンチンを取り上げた。アルゼンチンはマラドーナが持てる力を十分に出し切って、自由奔放にプレーできたのが、最大の勝因だった。そしてマラドーナと周りの連携がスムーズだったことも、見逃せない面だ。

横断幕に書かれた感謝と謝罪の言葉
 「ペルドン、ビラルド、グラシアス」
 6月19日の決勝戦のあと、アステカ・スタジア厶に現れた青と自の大きな横幕に、スペイン語でこう書いてあった。 
 「ごめんなさい。ビラルド監督、でもありがとう」 
 この言葉は、アルゼンチン代表チームのビラルド監督に対するファンの立場と気持を、率直に表現していた。 
 ペルドン(ごめんなさい)――これは、大会のはじまる前に、ビラルド監督に浴びせていた悪口は「間違いでした」という謝罪の言葉である。メキシコに行く前のビラルド監督への批判が、いかに手きびしいものだったかが、よく分かる。 
 だが、大会前の悪評など優勝してしまえば吹き飛んでしまう。コーチは「勝てば官軍」である。 
 グラシアス(ありがとう)というのは、アルゼンチンの全国民の本当の気持だっただろう。 
 ビラルド監督は、大会前にどんな批判を受け、それをどのように乗り越えて、チームを世界一に導いたのか。 
 1986年のワールドカップに優勝したアルゼンチンの戦いの跡を知るには、大会前のビラルド監督の立場から始めなければならない。

ビラルド監督が直面した二つの問題
 大会前のビラルド監督にとってまずやっかいな問題は、トップクラスの選手のほとんどが外国へ出ているから、思い通りのチームを作れない、ということだった。
 アルゼンチンのサッカー選手は、トップクラスの100人以上が、主として欧州のプロに行っている。これを全部呼び返すのは、できない相談だから、最少限、どの選手とどの選手を呼び返すかに頭を悩ませなくてはならない。
 また、欧州のプロのリーグは、5月までシーズンが続くから、主力選手を全部そろえてチームを編成するのは、ワールドカップの直前になる。まとまって練習する期間は、きわめて短い。
 それ以前の国際試合のときに、たとえばマラドーナをイタリアのナポリから呼んで加えることはやっているが、これは試合のときだけのことだし、1人か2人のスター選手に限られる。いろいろな選手を集めて、テストしてみるのは不可能である。
 この問題は、アルゼンチンのワールドカップ代表チーム編成のときに、いつもつきまとうことで、ビラルド監督に限ったことではないが、このハンディキャップを、どうやって克服するかは、頭の痛い問題だった。
 ビラルド監督にとって、もう一つのやっかいな問題は、1978年に地元で優勝したときのメノッティ監督の影が、大きく覆いかぶさっていることだった。
 メノッティ氏自身が、ビラルド監督に干渉するわけではない。
 アルゼンチンのファンとマスコミが、8年前の栄光の思い出を忘れかねていて、ことあるごとに、成功したメノッティ監督のやり方と、まだ未知数のビラルド監督のやり方を比較して、批判の材料にしたのである。
 「ビラルドは、規律をうるさくいうので、選手たちが、のびのびとプレーできない」というのが、一つの批判だった。
 この点については、ビラルド監督は、言葉だけの妥協もしなかった。
 「勝つためには規律が必要だ」と、記者会見の席でも繰り返していた。
 「アルゼンチンのサッカーは、奔放な攻撃に良さがあるのに、ビラルドは守りをうるさく言い過ぎる」というのが、もう一つの批判だった。 
 この点では、ビラルド監督も「奔放な攻撃はわれわれの特徴だ」とは言っていた。しかし、守りを固め、きびしくすることは、忘れなかった。 
 優勝したあとになって振り返ってみると、ビラルド監督のやり方も、8年前のメノッティ監督のやり方も、本質的には大きな違いがあるわけではない。 
 メノッティ監督も、チームの規律を大事にした。自分が父親になって、一つの家族のようにチームをまとめた。ビラルド監督は、学校の先生のように、きびしくしたといえるかもしれないが、これは表現の仕方の違いであって「勝つためにチームのまとまりが必要である」という点では変わらない。
 守備か攻撃か、という問題についても同じで、1978年に優勝したアルゼンチン代表チームを思い出してみると、戦法の基礎は、パサレラを中心とした堅い守りだったことが分かる。
 マリオ・ケンペスの奔放な個人技が、頭の中に強烈に焼き付けられているけれども、実は、守りの方のメンバーは大会を通じて、まったく不動の布陣だったのに、攻めの方は負傷者もあって、ケンペス以外は、入れかわり立ちかわりである。
 堅実な守りを基礎にした点でも、メノッティとビラルドは、あまり変わらなかったように思う。 
 同じ風土に育ち、同じ気質のサッカーから出て来た選手たちでチームを作るのだから、そんなに違ったサッカーが生まれてくるはずはないだろう。 
 とはいえ、これはいまになって、外国人の目から見てのことであって、アルゼンチンの内部で見れば、メノッティとビラルドのやり方には、大きな違いがあった。 
 ファンは「ブラジルとフランスに勝つのはむずかしいだろう」と口では言いながらも、心の底では優勝を熱望しているから、大会前には「ビラルドのやり方では勝てない」と、繰り返して非難したのだった。 
 この非難は、本当は「絶対に優勝して欲しい」という気持の裏返しの表現だった。

主将として命運託されたマラドーナ
 「マラドーナとは、大会前に5度、十分に時間をかけて話し合った。3度はイタリアに出かけて、2度はブエノスアイレスで」 
 ビラルド監督は、メキシコでの大会期間中のインタビューで、自分とマラドーナとの関係について質問されたとき、こう答えている。 
 「5度の話し合いの間に、マラドーナに二つのことを要求した。一つは30日間(ワールドカップの期間中)、サッカーだけに専念することだ。もう一つは、敵にファウルされてもカッとならないことだ。ディエゴは、この二つの約束を、しっかり守って戦っている」
 30日間、サッカーに専念する――ということについては、少し説明がいるかもしれない。マラドーナのまわりには、さまざまな人間が付きまとっていて、特別のインタビューをしようとしたり、コマーシャルに利用しようとしたりする。大会期間中は、そういうプレーに関係のないことは禁止する、というわけである。日本のスポーツの常識からは当たり前のことのように思えるが、プロの世界では、これはビジネスで大きなお金がからんでおり、生活にかかわることだから、納得づくでなければ、簡単にやめさせるわけにはいかない。
 敵にファウルされてもカッとならない、報復をしない――という約東には伏線がある。つまり、4年前のスペイン大会の失敗を繰り返さない、ということである。 
 4年前の大会でマラドーナは、敵のしつようなマークに苦しみ、何度もファウルに倒され、そのたびにカッとなった。もともとは敵の方が悪いのに、イタリア戦では警告を受け、ブラジル戦では退場させられた。この失敗を繰り返すようでは、とても優勝は狙えない。
  マラドーナの突進がファウルで止められるようなときは、敵の守りはパニックに陥っている。カッとなる前にすばやく立ち上がって、次の展開を考えなければならない。 
 われを失って敵に報復したりしたら致命傷である。退場させられて、自動的に次の試合には出られなくなる。マラドーナ抜きのチームでアルゼンチンが勝てるだろうか? 
 さて、5度にわたる話し合いで、ビラルド監督は、この二つの約束をマラドーナから取りつけ、そのうえで25歳のスーパースターにキャプテンの腕章を渡した。 
 チームの主力の大半は、マラドーナよりも年長であり、その中にはパサレラのように、実力も実績も十分なスターがいる。にもかかわらず、マラドーナを主将に指名したのは、このワールドカップは「マラドーナに賭ける」というビラルド監督の決意の表明だった。
 これも大会期間中の記者会見のときの話だが、マラドーナは、自分とビラルド監督との関係を、ジョークではあるけれども、次のように表現した。 
 「パサレラがメノッティ監督のお気に入りだったように、ぼくはビラルド監督のお気に入りなんだ」 
 アルゼンチンの記者たちが、ことあるごとにメノッティとビラルドを比較し、パサレラとマラドーナを問題にするので、マラドーナは、記者が聞きたいと思っていることを先取りして冗談を飛ばしたのだが、一面の真実もついている。 
 ついでに付け加えると、33歳のパサレラは、ビラルド批判のマスコミが「守備ラインに絶対に必要」と主張していた選手だが、メキシコ入りしてから「消化器の病気におかされた」ということで、ついに一度もサブにさえはいらなかった。 
 中盤のボチーニも「攻めの組み立てには欠かせない」とアルゼンチンのマスコミが繰り返していたベテランだが、1試合で終わりの方に、ちょっと顔見せをしただけだった。 
 もう1人、21歳のボルギは、大会前の1年足らずの間に急上昇したシンデレラボーイだったから、マラドーナとのコンビで出場することをファンが期待した。しかし1次リーグで2試合に先発したものの、これは後半戦に備えてのテストのようなものだった。ボルギのポジションに、人気者のパスクリが出た試合もあったが、この2人は最終的には、じみなエンリケにとって代わられた。 
 なぜビラルド監督は、こういう人気のある選手を使わなかったのだろうか? 
 体調の問題もあっただろうが、結果論をいえば「すべてはマラドーナのため」だったと思う。 
 マラドーナを100パーセント生かして使うために、中心になるようなプレーヤーは、マラドーナ以外には必要としなかったのだった。

 


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