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サッカーマガジン 1986年8月号

ビバ!! サッカー!! ワイド版

判定への安易な批判は不謹慎
ゴールライン通過を見極めるのは不可能

スペイン幻のゴール
テレビ解説に異議あり! 審判の処置は正しかった!

 開幕試合の翌日に、グアダラハラで行われたブラジル対スペインの試合で“幻のゴール”があった。
 0−0で後半にはいって間もなくの53分である。
 スペインの攻めで、コーナーキック後の混戦からこぼれ出たボールを拾い、ミッチェル(ミゲル・ゴンサレス)が、25メートルくらいの距離からシュートした。
 ボールはバーの下を叩いて下に落ち、地面にはね返って外に出た。ブラジルの選手がそれをゴールラインの外にけり出した。
 さて、問題は、ボールがバーを叩いて地面に落ちた時点で、完全にゴールの中にはいっていたかどうかである。完全にはいっていればスペインの先取点になる。
 線審は何のジェスチュアもしなかった。主審はそれを見てコーナーキックを指示した。つまり、ゴールを認めなかった。
 ぼくの坐っていた記者席のすぐ隣りがテレビの放送席だった。
 スペイン人の記者がすぐ飛んでいって、テレビのリプレーをのぞきこんできて「50センチは内側にはいっていた」と主張した。50センチもはいっていたのならば、主審がゴールを認めなかったのはミスだということになる。
 試合が終わったあとテレビがまたこの場面をスロービデオで見せた。それを毎日新聞の荒井義行記者といっしょに、自分の目で見たのだが、ぼくと荒井記者の見たところでは、ボールが完全にラインの内側にはいっていたかどうかは、きわめて微妙である。
 カメラの位置とラインとの間に角度があるから厳密なことは分からないにしても、少なくとも、その画面では、ボールとラインとの関係は、図のように見えた。
 ルールによれば、ボールとラインが、ごくわずかでも、毛ひと筋ほどでも重なっていれば得点ではない。逆に、わずかでも、毛ひと筋ほどでもすき間があれば、完全に中にはいっているから得点である。
 しかし、このケースでは、毛ひと筋ほどのすき間があったかどうかを見分けるのは不可能である。
 ぼくの結論は、こうである。
 審判がゴールを認めなかったのはまったく正しい。
 位置からこれを見分けることは不可能だったから、何のジェスチュアもしなかったのは当然である。
 主審にとっても、一瞬のうちにはね返ったボールとラインの間に、毛ひと筋のすき間を見分けるのは、人間わざではない。見分けられなかったのなら、ゴールを認めないのが当然である。
 ところがである。
 日本へ中継されたテレビでは、「はいってますね。ゴールですよ」と解説されたということである。
 思うに、この解説者は、審判に超能力を期待しているか、あるいはスペイン人の目を持っているかの、どちらかだろうと思う。
 スペインの人たちが「あれは本当ははいっていた。スペインが勝った試合だった」と、いつまでも語り草にするのなら話は分かる。それはサッカーの楽しみの一つだから……。

メヒコの地下鉄
アステカ行きの路線は今度も間に合わなかったが……

 これは、確認したニュースではない。メヒコにまつわるアネクドート、一種の笑い話として読んでいただきたい。
 メキシコ市の中心地からアステカ・スタジアムの方に行く地下鉄は、中心部をはずれると地上に出る。東京の地下鉄にも、郊外に出ると地上を走るのがあるのと同じ方式だ。
 アステカ・スタジアムに行くには、その地下鉄の終点でいったん降りて、別の車両に乗り替えて、競技場の前まで行くことになっている。いや、行くことになるはずだった。
 その競技場の前までの路線は、1986年の5月30日に開通式をすることになっていた。つまりワールドカップの開会式には間に合うはずだった。
 実際のところ、線路はちゃんと敷かれ、新しい車両がその上に乗っていたが、開会式の日には電車は走らなかった。
 「メキシコ人は働かないんだから間に合うはずはないよ」
 というのが、日本人の意見だった。
 開会式に行く途中のバスの窓から見ると、その新しい路線の線路のうえで、のんびりと工事をしている人たちがいた。
 「メキシコ人が働かないなんてウソじゃないか。ワールドカップの開会式の日にも働いている」
 これは、サッカー狂の某日本人の感想である。
 ところで、この地下鉄は、フランスの協力で建設されたもので、車輪がタイヤだから騒音が少ない、なかなかモダンなものである。
 1968年のメキシコ・オリンピックに間に合うように計画され、実際にオリンピックの年に一部が開通した。現在は市の中心部には、7路線がはりめぐらされ、なかなか便利である。働く人たちの重要な交通手段になっている。
 アステカ・スタジアムヘ行く路線は1970年、つまり前にメキシコで開かれたワールドカップのときに開通することになっていた。それが開通するどころか、16年後の2度日のワールドカップの開会式にも、とうとう間に合わなかったわけである。
 「せっかく、ここまで作ったのに、間に合わなかったのは、もったいないね」
 ぼくの感想に対して、メキシコ人が答えた。
 「うむ、それは重要な問題だ。間に合わせるために、3度目のワールドカップをやろう」
 一事が万事、この調子だから、メキシコに来た日本人は、はじめのうちは、いらいらする。しかし、その国には、その国のやり方があるのだから、慣れなければならない。
 「地下鉄が開通しないからって気にすることはないよ。あれは働く人たちのものなんだ。だからタダなんだ。会社のエレベーターだって働く人たちのためだからタダだろ」
 地下鉄の料金は1ペソ。日本のお金にすると1円の3分の1か4分の1で、タダ同然である。
 「サッカーについては何の心配もない。定刻通りキックオフになる」
 まったく、その通り。ただし入場料金はタダどころか、地元の貧しい人たちにとっては、半年分の収入くらいの値段だった。だからみんなローンで切符を買ったそうである。

メヒコ86の運営
出足はいささか悪かったが苦情をいえる筋ではない

 「このワールドカップは、本当は日本でやるはずだったんだ」
 メキシコのワールドカップの運営に苦情をいう人に会うたびに、ぼくは、こう説明している。
 「日本がやらなかったのをメキシコが引き受けてくれたんだから、われわれに苦情をいう権利はないよ」
 これは半分は冗談だが、半分は真実だ。何度も書いたことのある話だが、新しい読者のために、もう1度、書かせてもらいたい。
 ぼくが初めてワールドカップを見に行ったのは16年前。1970年にメキシコで開かれた大会だった。
 このときに、メキシコ市で当時の国際サッカー連盟(FIFA)のサー・スタンリー・ルース会長と日本サッカー協会の野津謙会長が会食する機会があり、ルース会長が野津会長に「1986年の開催地に日本が立候補してはどうか」と勧めてくれた。
 野津会長は非常に乗り気だったのだが、日本に帰ると当時“若手”といわれていた役員が「そんな夢みたいなこと」と反対して、とても立候補できるムードではなくなった。16年後の夢を実現する意欲がないようでは――と、ぼくは、すっかり落胆したものである。
 結局、このときはコロンビアが開催地に決まり、そのコロンビアは国内経済の悪化のために1983年に開催を返上、メキシコが代わりを引き受けたわけである。
 あのときルース会長は、1964年の東京オリンピックを開催した組織力と、その後の経済成長ぶりに目をつけて、アジアのサッカー振興のために、日本にワールドカップ開催を勧めてくれたに違いない。引き受けていれば、今回のワールドカップは、日本で立派に運営されただろうと、ぼくは信じている。
 率直にいって、今回のメヒコ86の運営ぶりは、あまり良くない。大会がはじまってから、地元の人たちのけんめいな努力で、一日ごとにどんどん良くなってはきたが、16年前のメヒコ70には、とても及ばない。メヒコ70の運営は、実にすばらしいもので、あらゆるオリンピック、あらゆるワールドカップを通じて最高だったと、ぼくは信じている。 
 メヒコ70の運営がすばらしかった理由は、いろいろあるのだが、それはここでは置いておくとして、メヒコ86の運営がはじめうまくいかなかった一つの原因は、コロンビアに代わって開催を引き受けてから、2年間しか準備期間がなかったことである。日本が最初に引き受ける決意をしていれば、16年間の準備期間があったはずである。だから日本人には、メキシコの大会運営に苦情をいう資格はない――というのが、ぼくの理屈である。 
 今回、またFIFAのアベランジェ会長が、日本に立候補を勧めている、というニュースがある。
 次の1990年の開催地はイタリアで、その次は1994年である。いますぐ準備をはじめれば、8年間で何とか……と思うのは、愚かな夢だろうか。


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