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サッカーマガジン 1979年12月10日号

特別企画 激動のサッカー70年代を振り返る
70年代の日本サッカー
        11大ニュースを追う   
  (2/2)   

読売クラブの登場
 低迷を続ける日本リーグは、1972年に2部リーグが生まれ、現在では20チームになった。読売クラブは、1969年に創立、東京リーグ、関東リーグと下から上がってきて、2部に加わり、1978年に宿願の1部入りを果たし、たちまち上位に躍進して話題を集めた。 
 読売クラブの登場は、1970年代の日本のサッカーの新しい流れを示す、いろいろな意味を持っている。 
 第一に、明確に、将来のプロ化を目標に掲げているクラブ組織のチームが、初めて日本リーグの1部に進出してきたことである。大学チームから企業チームに移った日本のサッカーの主流を、ヨーロッパや南米と同じクラブ組織に変えようという努力が、まず一つ実った形である。 
 第二に、技術と戦術の面でも、読売クラブは、新しい風を吹き込んだ。 
 独特のドリブルをするジョージ与那城を中心に、ブラジル育ちの選手の個人技を、奔放に生かした攻撃的サッカーは、大学や企業のチームの、個性を殺したチームプレーのサッカーとは異質のものだった。 
 個人のテクニックを重視しようという流れは、近江達氏が独自の方法で少年たちを育てている大阪の枚方クラブや、77年度の全国高校選手権で旋風を巻き起こした静岡学園のサッカーにも表れている。 
 このような個性の違うチームが、表面に出はじめたのは、70年代の新しい傾向だった。


高校選手権大会のブーム

 正月の全国高校サッカー選手権大会が、年を追うごとに盛んになり、夏の甲子園に並ぶ冬のビッグエベントに成長したのは、1970年代の大きな出来事だろう。これは日本代表チームの不振、日本リーグの低迷とおよそ対照的だった。
 高校サッカーの盛り上がりに拍車をかけたのは、テレビ中継である。
 高校サッカー選手権大会を民放テレビが放映するようになったのは、1970年度からで、この年は日本テレビ系列局だけが、全国大会16試合のうち8試合だけを中継した。 
 翌年、1971年度からは、全国各地の民放テレビ局が、特別のネットワークを組んで地元チームの試合をすべて放映するようになった。全国大会だけでなく、各県の代表決定戦も、地元局が中継するようになった。現在では40局以上のネットワークで、原則として全試合が中継されている。
 テレビの肩入れとともに、全国の参加校数も急上昇し、1970年度には1500校だったのが、1978年度には3000校を突破した。 
 この大会は、1918年以来、関西地方で開かれていたが、1976年度から、主としてテレビ放映の都合で、東京を中心とする首都圏開催になった。この首都圏開催は、さらに大きな成功を収め、観客数の増加はめざましく、試合も、熱気あふれる独特の盛り上がりを見せるようになった。 
 日本のサッカーの底辺の充実ぶりを示すものとしては、高校サッカーの隆盛のほかに、少年サッカーチームの急増がある。 
 1977年から、それまでのサッカー少年団大会を発展させて、全日本少年サッカー大会が開かれるようになり、その参加チーム数は、高校選手権大会の参加チーム数を、大きく上まわっている。 


国際交流の拡大

 1972年正月の全国高校選手権大会に優勝した習志野高のメンバーが、その年の5月に、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問、その帰りに中国でも親善試合をした。ユースレベルの交流であり、日本国内では非公式の遠征のように扱われたが、いまにして思えば、これは1970年代のサッカーの国際交流拡大の重要な先がけだった。
 当時、日本サッカー協会は、韓国への政治的配慮もあって、北朝鮮との交流に反対していた。また中国は、当時、国際サッカー連盟(FIFA)から脱退していたため、公式の国際交流を禁止されている状況だった。 
 しかし、習志野高の訪問が突破口となって北朝鮮とも、中国とも、交流は活発になった。北朝鮮へは、日本リーグ・ジュニア選抜(1978年)、日本代表チーム(1979年)が訪問、中国へも三菱重工が親善訪問(1973年)、日本選抜が北京国際大会に参加(1977年)、両国のチームも日本に来るようになった。 
 一方、韓国とは1972年から日韓定期戦がスタートした。 
 1970年代には、アジア大会に中近東の国まで含まれるようになり、中国も加わってアジアの情勢は非常に複雑になってきたのだが、その反面、日本としては今後、韓国、北朝鮮、中国など比較的近い国との交流を定期的に緊密にする必要が出てくるだろう。その土台が1970年代につくられた。
 1979年に第2回ワールドユース大会が日本で開かれた。若い世代のためのワールドカップが、将来大きく発展する基礎を、この第2回大会で固めた意義は大きかった。
 また、この大会の期間中に、FIFAアベランジェ会長が北京を訪問して、中国のFIFA復帰を決めてきた。これも、将来へ大きな影響を及ぼす出来事だった。 


ペレ・サヨナラ・ゲームの成功

 1977年9月14日の“ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン”は、国立競技場をほぼ埋め尽くす6万5000の大観衆を集めた。いったんブラジルの“サントス”から引退したペレは、18億円という高額でアメリカの“コスモス”と3年契約をし、アメリカにサッカーブームを起こした。そのペレの契約が切れ、いよいよ本当に引退することになって、コスモスが各国を巡回して、“ペレのサヨナラゲーム”をした中の一つだった。
 日本では、これが釜本選手の日本代表チームでのサヨナラゲームとなり、いろいろな意味で大きな成功を収めた。約8000万円といわれていた日本サッカー協会の赤字のほとんどが、これで一気に解消、協会はひとまず肩の荷をおろした。 
 歴史的にみると、これは象徴的な出来事だった。というのは、1970年代に、サッカーだけでなく、世界のスポーツ界全体を襲った商業化の波が、日本にも打ち寄せ、その最初の大きな波がしらが、この“ペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパン”だったからである。
 この試合は、世界的な広告企業である「電通」が、企画、宣伝、運営をほとんど一手に引き受けた。日本サッカー協会が直接担当したのは、競技場の中の試合だけ、といっていいほどだった。 
 こういうやり方は、当時は一部の非難を受けたけれども、現在では、競技会にスポンサーをつけたり、競技場内に広告を置いたりするのは、日本のスポーツでも当たり前になっている。 
 サッカーでも、1978年から始まったジャパン・カップは、この商業化の流れに、さおさしている企画といえるだろう。


ワールドカップのテレビ中継

 日本のファンが、世界のサッカーに大きく目を開いたことは、1970年代の、すばらしい出来事だった。そのために大きな貢献をしたのは、テレビによるワールドカップの紹介である。 
 1970年のメキシコ・ワールドカップを東京12チャンネルの「三菱ダイヤモンド・サッカー」が、その年から翌年にかけて、毎週放映した。 
 1974年の西ドイツ・ワールドカップは、同じ東京12チャンネルが、決勝戦を生中継し、その他の試合も1年がかりで紹介した。 
 1978年のアルゼンチン・ワールドカップは、ついに公共放送のNHKが生中継の放映権をとり、かなりの試合を衛星中継で日本に伝えた。東京12チャンネルも、ほとんど全試合を、1年がかりで録画放映した。 
 これと並行して、新聞雑誌による報道も役立った。三つのワールドカップについての『サッカーマガジン』の多くの特集号は、世界のどの国のサッカージャーナリズ厶と比較しても、ひけをとらないものである。コーチやファンの視察団、見学団も大会のたびに現地に出かけた。 
 ワールドカップの影響は、日本のサッカーの技術や戦術に直接表れるようになった。たとえば、1976年度に、リーグと天皇杯の2冠をとった古河電工には、1974年のオランダのトータル・フットボールの影響が色濃く表れていた。 
 しかし、世界のサッカーが紹介されはじめたことの影響は、将来、もっと広く間接的に出てくるだろうと思われる。 
 これまで、先輩−後輩という縦の系列で教えられてきたサッカーに、横の広がりによる知識の吸収がプラスされるだろう。
 また、狭い意味の技術や戦術の面からだけ外国のサッカーを学ぼうとしていた人たちのほかに、社会的な視野からサッカーを見ようとする人たちが出てくるだろう。 
 そのような影響が、日本のサッカーの発展にどう結びつくかは、1980年代の課題である。

 私たちは、一つのスタイルを選び、みんなにそのスタイルのサッカーを身につけさせるための練習をした。そのスタイルというのは、全盛期のアヤックス・アムステルダムのスタイルである。そのスタイルは次のようなものである。 
 まず、イニシアチブをとること――これはボールのところにいることを意味している。ボールを奪いとるために、できうるかぎり、あらゆることをする、というのが、私たちのやり方だった。これを私たちはよく「ボール狩り」をすると呼んでいた。
(77年3月10日号「リヌス・ミケルスのトータル・フットボール」より抜すい)

(管理者注:元の記事にある年表や各種データはすべて省略しました。)

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