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サッカーマガジン 1979年12月10日号

特別企画 激動のサッカー70年代を振り返る
70年代の日本サッカー
        11大ニュースを追う   
  (1/2)   

 70年代とは、日本サッカーにとってどんな時代だったのか。すばらしい出来事があった、大きな進歩があった。しかし悲しい出来事も、停滞もあった――。この10年間、ずっと第一線の記者としてサッカーを見続けてきた牛木記者に、“11大ニュース”を解説してもらおう。

杉山、釜本が代表チームから退く
 日本代表チームは、1964年の東京オリンピックを機会に急速にレベルアップし、1968年のメキシコ・オリンピックでは銅メダルを獲得するという金字塔を打ちたてた。
 この日本のサッカーの輝く60年代を代表したのは“黄金の足”杉山隆一と“メキシコの得点王”釜本邦茂のSKコンビだった。
 だが、日本代表チームの成績は、メキシコの銅メダルをピークに、70年代にはいると下降の一途をたどる。
 それに追い討ちをかけたのが、杉山、釜本両選手の代表チームからの引退だった。 
 東京オリンピックでの活躍で“20万ドルの足”として有名になった杉山隆一選手は、1971年10月2日に、ソウルでのミュンヘン五輪予選、対韓国戦を最後に、日本代表チームから姿を消した(引退発表は72年5月29日)。
 杉山選手は、その後も三菱の選手としてはプレーを続け、1974年の元日に三菱が天皇杯の決勝戦で日立を破り、2冠をとったのを最後に、三菱からも退いた。
 釜本選手の日本代表最後の試合は、1977年9月14日のペレ・サヨナラゲーム・イン・ジャパンで、このときの国立競技場は、6万5000(協会発表)の観衆で埋まり、ペレが花道をつくってくれた。 釜本の場合は、その前、6月15日の日韓定期戦のあと“代表引退宣言”をしており、このペレ・サヨナラゲームは“特別出演”だった。釜本選手も、その後、ヤンマーではプレーを続け、監督兼選手となった。

 ぼくは自分がナショナル・チームを退くときは「いくらがんばっても、もうヨーロッパで通用するサッカーはできない」と判断したときと決めていた。この1年、ぼくは若い選手に積極的に、ああだ、こうだ、といってきた。チーム内に話し合いがあり、いい感じでやれた。
 しかし、ぼくの心の中にあるヨーロッパのプレーヤーとの比較は、まったく妥協の余地がなかった。ぼくはヨーロッパでは通用しない。そう思った瞬間、やはりナショナル・チームを退くしかなかった。(77年10月25日号、釜本選手の手記より抜すい)


日本代表、4度の予選に勝てず

 1970年代に、日本代表チームは、二つのオリンピック予選と、二つのワールドカップ予選で敗退し、1度も、世界的なタイトルをかけた大会の決勝大会へは、進出できなかった。 
 1971年9月に、韓国のソウルで行われたミュンヘン・オリンピックのアジア東地区予選では、第1戦でマレーシアに3−0で敗れて脱落した。当時の日本代表チームのメンバーは、メキシコ銅メダル組が、大部分残っており、若手が何人か加わった顔ぶれである。杉山、釜本もはいっている。「メキシコ後の若手への切り替えが遅れた」というのが、当時の批判だった。
 1973年5月に、やはりソウルで行われたワールドカップのアジアA地区予選では、準決勝でイスラエルに延長戦のすえ、1−0で敗れた。この準決勝の試合に出たメキシコ銅メダル組は、横山、小城、釜本の3選手だけである。若手との入れ替えは、このときはかなり進んでいた。
 モントリオール・オリンピック予選は、1976年の3月だった。この予選は、日本、韓国、イスラエルの間で、ホーム・アンド・アウェー決勝リーグが行われたが、日本は1引き分け3敗に終わった。このときのメンバーでメキシコ銅メダル組は、森と釜本の2人だけである。ソウルでの韓国との第2戦では釜本が2ゴールをあげて引き分けにもち込んだ。“釜本が頼り”というところに問題点があった。
 1977年3月から4月のアルゼンチン・ワールドカップ予選(アジア2組)も、韓国、イスラエルとのリーグで、また1引き分け3敗だった。このときは、メキシコ組はもう釜本だけだった。 
 この間に代表チームの監督は、岡野俊一郎−長沼健−二宮寛と代わった。いずれも、予選敗退の責任をとっての交代だった。
 1979年2月に、前年末のアジア大会の不振を理由に二宮監督も辞任した。 
 そして、下村幸男新監督のもと、1980年春に、モスクワ・オリンピック予選を迎えようとしている。 


日本サッカー協会のクーデター

 1976年4月2日の日本サッカー協会評議員会で、日本サッカーの総元締めである日本サッカー協会に“政変”があった。 
 野津謙会長、小野卓爾専務理事に代わって財界から平井富三郎会長が就任、日本代表チームの監督をやめた長沼健氏が専務理事になった。 
 この役員交代は一種のクーデターであり、戦前派の旧勢力から、戦後派の若手が権力を奪った形だった。 
 また、1921年の大日本蹴球協会誕生以来、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心の協会が、日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移ったものと、みることもできる。 
 この政変は、1970年代にはいってからの日本代表チームの沈滞と、協会の8000万円にのぼる“赤字”という“失点”に乗じて、長い間“実力者”として協会を握っていた小野卓爾氏を追い落とす形で起きた。 
 1960年代に、西ドイツから招かれて日本のサッカーの飛躍的レベルアップに貢献したデットマール・クラーマー氏が、日本のサッカーの組織の近代化、民主化を提言していたが、小野氏を中心とする旧体制派が、なかなか新しい改革を受け入れようとしなかったことが前提にある。 
 クラーマー氏の弟子である長沼健、平木隆三などのコーチ出身者が、たまりかねて旧体制打破に立ち上がったのが、この政変だった。 
 新体制によって、それまでの行き詰まりのいくつかが打破された。 
 しかし、旧体制のマイナス面だけを見て、それまでの功績を無視するのは、公平でない。
 政変の震源地であるクラーマー氏を、1960年代にコーチとして招いた原動力は、ほかならぬ小野卓爾氏であった。 


天皇杯の改革―オープン制に

 1965年に日本リーグがスタートしてから、しばらくの間、天皇杯全日本選手権大会は、日本リーグの上位4チームと大学のベスト4の計8チームだけで争われていた。 
 しかし、これはあくまでも便宜的な、過渡的なやり方で、日本サッカー協会に加盟するすべてのチームに参加の機会が与えられるようでなければ、全日本選手権のタイトルにふさわしくない。 
 そこで、1972年度から“天皇杯のオープン化”が実現し、“おとな”のチームは、大学チームでも、会社チームでも、クラブでも、すべて参加できることになった。そのために天皇杯の都道府県大会(予選)が復活し、全国で1000チーム以上が、1年がかりで日本一を争う、大がかりな大会となった。 
 しかし、優勝は1967年以来、ずっと日本リーグ1部のチームに占められていて、大学チームが食い込む余地は。ますます小さくなった。 
 この天皇杯の改革は、日本のサッカーの組織改革の一部であり、前ぶれだった。 
 1976年に、日本サッカー協会の新体制がスタートすると、若手の役員が中心になって、それまで棚上げされていた制度の改革に手がつけられた。 
 チームの登録制度は、これまで学校制度に応じて種別を分けていたのを、年齢別に改めた。したがって、単一の学校チームでない、クラブチームでも、それぞれの年齢の種別に登録できるようになった。 
 一方、日本リーグの下部組織としての地域リーグが、1970年代のうちに、全国にできた。
 このような組織や選手権制度の改革は、まだ十分とはいえないけれども、1970年代に大きく変わりつつあることは確かである。 


日本リーグの行きづまり

 1960年代の日本のサッカーには、二つの大きな成果があった。一つは1965年の日本サッカー・リーグ発足であり、一つは1968年メキシコ・オリンピックの銅メダルである。 
 ところが、1970年代にはいると、メキシコの銅メダルに輝いた日本代表チームの停滞とともに、日本リーグにも行き詰まりがみえてきた。 
 代表チームの不振は、国際試合の不成績になって表れるが、日本リーグの行き詰まりは入場者数の減少になって表れている。 
 発足以来爆発的な増え方を見せていた日本サッカー・リーグの観客数は、1968年のメキシコ・オリンピックの直後から減りはじめ、1970年代にはいって、横ばいではあるが、傾向としては減少していた。そして1977年には、大きく落ち込んでいる。 
 これは、一つには、日本リーグの試合が明らかに面白くない、ことからきている。テレビで紹介される外国のプロの試合に比べて、単にレベルが低いだけでなく、試合のやり方そのものが、単調で面白くないことが、誰の目にも明らかである。       
 また、日本リーグの運営が、会社勤めの運営委員の片手間仕事に任されていて、あまりにもアマチュア的だと、いうこともある。各チームごとの企業努力によって観客を増やし収入をあげるという仕組みではないから、安易な試合日程の消化だけが先に立っているという傾向は否定できない。 
 ヨーロッパや南米の“サッカー先進国”を見習って、プロフェッショナリズムを全国リーグに採り入れなければならないときが、目の前に迫っているようだ。


奥寺康彦選手のプロ入り

 1977年10月に、古河電工の奥寺康彦選手が、西ドイツの1FCケルンと3年契約をした。これは、日本から生まれたプロサッカー選手の第1号だった。 
 「ヨーロッパのプロの中にはいって通用するのだろうか」と心配された奥寺だったが、最初のうちは、本場の激しいプレーにとまどいながらも、次第にシュート力の良さを生かせるようになり、レギュラーの座を確保し、ヨーロッパのクラブの国際試合でヒーローになる活躍も見せた。 
 奥寺選手のプロ入りは、日本のサッカーにとって大きな刺激になった。 
 まず、サッカーをやっている少年たちに、一つの夢を与えることになった。「日本人でもやれる」という希望が生まれた。 
 また、堅実な会社チームの古河電工が、奥寺選手を快くプロに送り出したところに、日本のスポーツ界の様変わりを感じさせるものがあった。プロを汚いもの、別の世界のものとみる日本独特の偏狭なアマチュアリズムは、過去のものとなり、国際的な感覚が、日本で通用することがわかった。 
 しかし、タレントの少ない日本代表チームにとっては、奥寺が去ったのは、大きな損失だった。奥寺は、前年のムルデカ大会の得点王であり、釜本のあとを埋めなければならない日本のストライカーだった。その奥寺が、釜本の代表チームからの引退の直後に、プロ入りしたのは、モスクワ・オリンピック予選への見通しを、ますます暗くするものだった。

 サッカーのプロになるなんてことは、2カ月ほど前までは夢の中でなら何度か見たことはあったが、ぼくにとっては別世界のことだった。 
 アマチュアの世界を出ていくことは心にひっかかっていた。それが、たった1通の契約書に自分の名前を書き込んだ瞬間に、あっさりぼくとは縁のないものになってしまった。
 この日ぼくは、アマチュアの世界との離別に感傷的にもなっていなければ、未知のものに挑んでいくんだという気負いもなかった。これは自分でも不思議なくらいだった。
 1FCケルンの左ウイングのポジションに、きっと“オ・ク・デ・ラ”の4字を焼きつけてみせる。
(77年11月25日号、奥寺選手の手記より抜すい)

 (管理者注:元の記事にある年表や各種データはすべて省略しました。)


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