地元アルゼンチンの初優勝でドラマチックな幕切れとなったワールドカップ・アルゼンチン78。スーパースターの活躍はなかったが、好試合も多く、大成功の大会だったといってよいだろう。そして、それを可能にしたのはアルゼンチン・チームのひたむきな攻撃サッカーと、アルゼンチン大衆のサッカーへの深い愛情だった。
史上空前の激戦
アルゼンチンが「ワールドカップ78」の頂上に立ったいま、振り返ってみると、その登頂ルートがはっきり見える。しかし、6月11日に、1次リーグが終わった時点では、頂上へのルートは藪の中だった。どのチームが正しいルートをたどっているのか、見当がつかなかった。
2次リーグの組み合わせについては、ちょっとした混乱があった。
前に書いたように、1次リーグの期間中、ぼくはずっとマルデルプラタにいて、ブラジルの試合を追っていた。11日にブラジルはオーストリアに1−0で勝ち、第3組ではブラジルとオーストリアが、ともに勝ち点4で2次リーグに進出した。この2チームは得失点差も、ともにプラス1で、同じだった。
FIFAのワールドカップ規則第24条の6に、こういう場合には「総得点の多いほうをグループの勝者とする」と書いてある。総得点はオーストリア3点、ブラジル2点だから、ブラジルはグループ2位で、大西洋岸のマルデルプラタからアンデス山脈のふもとのメンドーサに移って2次リーグを戦うことになる。
ところが、マルデルプラタのプレスセンターで、ブラジルから来ている日系二世の記者に「あしたはメンドーサ行きだね」と声をかけたら首を振って「いいや、わからない。あした10時に抽選だ」という。びっくりして調べてみたら、規則第24条の7には「得失点差が同じときには抽選をする」と書いてある。同じ規則の中に矛盾した二つの文章があるわけだ。あとでわかったことだが、これは規則を改正したときの印刷のミスで、6を加えたとき7を削除するのを忘れたものらしい。
結局、FIFAは翌12日午前10時にブエノスアイレスのホテル・シェラトンで会議を開いて、改正した規則のとおり、オーストリアを1位、ブラジルを2位とすることを最終的に確認したが、抽選を主張した理事も2人いたそうだ。
この結果、2次リーグのA組はオランダ、オーストリア、西ドイツ、イタリアとヨーロッパのチームばかり、B組はポーランド、ペルー、アルゼンチン、ブラジルで、南米の3チームが全部集まることになった。ワールドカップの興味の一つは、ヨーロッパと南米の対決にあるのだが、その点では、このグループ分けは面白味がない。そのかわり、A組では前回の決勝と同じ西ドイツ−オランダのカードがあり、B組には南米の宿敵同士、アルゼンチン−ブラジルの激突がある。2次リーグは空前の大激戦である。
かりに抽選で、ブラジルがA組に、オーストリアがB組に配分されていたらどうだろうか。A組には強豪ばかり四つ集まってつぶし合い、B組のアルゼンチンは、比較的やりやすい相手と組むことになる。特に苦手のブラジルが別のグループに行ってくれるのは、ありがたい。
しかし、そうならなかったのは幸いだった。アルゼンチンが2次リーグの組み合わせの不利を乗り越えて優勝したことによって、大会は後半にぐっと盛り上り、アルゼンチンの優勝は価値の高いものとなった。
大会最大のヤマ場
1次リーグではブラジルを中心に、2次リーグではアルゼンチンを中心に大会を追っていくつもりだったのだが、アルゼンチンが1次リーグ最終戦でイタリアに0−1で敗れて、第1組の2位になったために、このプランはちょっと、むずかしくなった。
アルゼンチンは、1次リーグの1位であればブエノスアイレスのリバープレート競技場にずっと居すわって試合をできることになっていた。2位だったのでブエノスアイレスから300キロ離れたロサリオに移ることになる。リバープレートは75000人収容で記者席も4500人分用意されているが、ロサリオのサッカー専用スタジアムは、4万人収容で記者席も1200人分が精いっぱいである。だから記者席の切符を手に入れるのが容易でない。それにロサリオは、こぢんまりした町で、ホテルをとるのもむずかしい。
しかし、6月18日のアルゼンチン−ブラジルの対決だけは、なにがなんでも見る決心をした。同じ日にコルドバで西ドイツ−オランダがあったのだが、どちらを選ぶか、考える余地はなかった。南米同士の真剣勝負は、ぼくたちにはめったに見る機会がないし、何よりも、この対決が今度のワールドカップの最大のヤマ場だと信じたからである。
しかし、切符もなかったし、ホテルもなかった。ブエノスアイレスのプレスセンターでサービスしている英語の通訳の女性に頼んで15軒以上のホテルに電話しだのだが、どのホテルも、ブラジルの応援団に占拠されていて満員だった。
試合はナイターだから、バスか列車を利用して当日の朝、出発し、夜行で帰ってくる手もあるのだが、切符を確保していなかったから遅くとも前日に現地に行って、手に入れる算段をしなければならない。
ホテルへ電話をかけるのを躍気になって手伝ってくれたパトリシア・トーマスさんが、たまたまロサリオの出身だったのに救われた。ホテル獲得を断念した彼女は、自分の実家に電話をかけて、ベッドを一つ提供してくれたのである。
さて、苦労して見に行ったアルゼンチン−ブラジルは0−0の引き分けだった。
しかし、この試合は、やはり大会最大のヤマ場だったと思うし、大会の中で指折りの好試合の一つだったと思う。
これは中盤の争いだった。ブラジルは1次リーグの最終戦と同じ、ツートップ。中盤に4人を投入した。トニーニョ・セレーゾが負傷で休んだが、代わってチコンが出た。
アルゼンチンは右ひじの脱臼で2試合休んだルーケがセンターフォワードに復帰し、ケンペスが中盤のトップに下がった。両チームの布陣は右の図のとおりである。
ケンペスが前半12分に30メートルのロングシュート、続いて16分にも25メートルのシュート。積極的な攻撃の意欲がうかがわれた。
ブラジルの攻めにも、遠くからのシュートが目立った。前半19分にメンドンサが正面30メートルから、後半23分には、交代出場したばかりのジーコが25メートルからシュートしたが、いずれもキーパーに防がれた。
今度の大会では、遠くからのシュートが目立ったように思うが、ただ単純に外側からねらったシュートは、ほとんどゴールキーパーにとられる。ロングシュートを成功させるには、ほかの選手の動きでゴールキーパーの目をくらます“仕掛け”がいる。両チームの固い守りが、その仕掛けを防いでいた。
一人一人の選手のボールコントロールの確かさではブラジルがまさり、中盤に多くの人数をさいているためもあって、ボールをキープしている時間はブラジルのほうが長かった。しかし、ゴールを襲ったチャンスの数は互角で、引き分けは順当な結果である。
この引き分けは、アルゼンチンのほうにやや有利に働いたと思う。一人一人の技術と戦術の能力では、ブラジルのほうが上だったからである。アルゼンチンは、闘志とチームスピリットで、これに対抗していた。
ゴールラッシュ
アルゼンチンは、2次リーグの第1戦でポーランドに2−0で勝っていたから、これで1勝1引き分け、勝ち点3である。このポーランド戦では、センターフォワードを務めたケンペスがすばらしい個人技を見せた。前回3位のポーランドの逆襲速攻戦術は底が見えた感じである。
ブラジルも2次リーグ第1戦でペルーに3−0で勝っていて、1勝1引き分け、勝ち点3である。この時点では得失点差で、ブラジルが1点リードしている。したがって2次リーグB組は、次の試合で、どちらが何点多くとるかが問題になってきた。
6月21日の2次リーグ最終戦は、午後4時45分からメンドーサでブラジル−ポーランド、午後7時15分からロサリオでアルゼンチン−ペルーである。
ブラジルのコウチーニョ監督は「アルゼンチンは、ブラジルの試合結果をみてから作戦を立てられるから有利だ」と苦情を述べた。このタイムテーブルは、ヨーロッパヘのテレビ中継がゴールデンアワーになるように決められたもので、A組のほうは2試合同時に行われているのだから、ブラジルにとっては、とんだとばっちりである。
先に行われたブラジル−ポーランドは前半1−1だった。ポーランドは、このときがいちばん出来がよかったといわれている。しかし、後半のブラジルの攻めは、もっと、はるかにすごく、2点を加えて振り切った。3点目のときには、続けざまのシュートが、ポストに当たり、バーに当たり、またポストに当たるという猛攻の連続、それを、ことごとくブラジルが拾って攻め続け、最後にロベルトが叩き込んだ。チャンスをつかむと息もつかせず、たたみ込んでくる。南米独特の猛烈な攻めである。
これでブラジルの得失点は6−1、プラス5となった。アルゼンチンが、これを上まわって決勝戦に進出するためには、夜の試合に4点差以上をつけて勝たなければならない。3点差だと、得失点差は同じプラス5になるけれども、総得点数で及ばないからである。
相手は、すでに望みを失っているペルーではあるけれども、4−0で勝つのは奇跡に近いように思われた。わざわざロサリオまで出かけたビデラ大統領を含めて、アルゼンチンの全国民が、なかばはあきらめた気持で、なかばは奇跡を信じてテレビを見つめ、ラジオにかじりついたといっても決してオーバーではない。
奇跡は起こった。アルゼンチンは6−1で勝った。ゴールラッシュの起爆剤になったのは、自らも2点をあげた23歳のマリオ・ケンペスである。ケンペスが、この大会の最優秀選手であり、新しいスーパースターであることは、決勝戦を待たずこの時点ですでに、はっきりしていた。
ペルーが、アンデスをはさむ隣国同士のよしみで、開催国のアルゼンチンに手を貸したなどと思ってはならない。守備的な試合をしなかったのは碓かだけれども、攻めの得意なペルーは、特に守りを固める必要のない立場だった。立ち上がりの10分に、ムニャンテのシュートが左ポストを叩いた場面があった。あれがわずかでも内側に飛んでいたら、どうなっていたかわからない。南米同士のライバル意識は、ヨーロッパに対する以上に激しく、安易に勝ちを譲るわけにはいかないのだ。
ヨーロッパの強豪が集まったA組リーグのほうでは、オランダが2勝1引き分けで決勝に進出した。
前回優勝の西ドイツは、今回はまったくいいところがなかった。1、2次リーグの6試合で1勝4引き分け1敗。その1勝も、参加チーム中最低の成績だったメキシコからあげたものである。
西ドイツ不振の基本的な原因は、西ドイツ・サッカー協会が狭量だったためだそうだ。これは、日本代表チームの二宮寛監督を通じてきいたバイスバイラー氏(1FCケルン監督)の話である。アメリカのコスモスへ行ったベッケンバウアーをはじめ、スペイン・リーグヘ行っていたパウル・ブライトナーやウリ・シュティーリケを使わなかった。そのために人材不足が決定的になったのだという。
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