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サッカーマガジン 1978年7月25日号

1次リーグを終わって
可能性を示したイタリア、
     だが2次リーグは激戦だ  
  (1/2)   

 1次リーグはマルデルプラタでブラジルを中心に見た牛木記者に、1次リーグでの“候補”ブラジルの戦いぶり、序盤戦の展開と強かったイタリア、アルゼンチンなどの話を織りまぜ、1次リーグの総評、2次リーグでのポイントを分析してもらった。

ブラジル中心の1次リーグ
 アルゼンチン・ワールドカップ開会式の翌日、6月2日の早朝の飛行機でマルデルプラタに飛んだ。午前8時15分、ブエノスアイレス市内の国内線用の飛行場、アエロパルケ発。ワールドカップ用の臨時便で乗客は、大会取材の記者とカメラマンばかりである。  
 マルデルプラタは、ブエノスアイレスから南へ400キロの港町だ。1次リーグでは、ブラジルがこの町に居すわって3試合をするので、ぼくも、1次リーグはずっとこの町に居すわることに決めていた。  
 ワールドカップを見るのに、好試合になりそうなカードを拾って転々と旅行するのも、一つの方法である。試合は国内の各都市に分散して行われるから移動がたいへんだけれども、いろんな町を観光できるし、多くのチームを見ることができる。 
 1970年のメキシコと1974年の西ドイツのときは、その方法で話題の名勝負をほとんど見ることができた。しかし、今度はやり方を変えて、マルデルプラタに10日間滞在して、ブラジルを追いかけることにした。優勝するチームは、25日間の大会を通じて状況や相手に応じてやり方を変えていく。それを知るには、一つのチームを続けて見たほうがいいわけである。 
 もっとも、ブラジルを追いかけてみても、ブラジルが優勝するかどうかは、大会が終わってみなければわからない。だけど、優勝の可能性が大きいチームのうち、何か新しいものを持っているところがあるとすれば、それはブラジルかアルゼンチンだろうと思っていたので、1次リーグではブラジルを、2次リーグではアルゼンチンを追う方針をたてたわけである。 
 それに、マルデルプラタに10日間いると、フランス、イタリア、ハンガリーをそれぞれ2試合ずつ、スウェーデン、スペイン、オーストリアを1試合ずつ見ることができる。この6つの国のうち、スウェーデン以外の国のサッカーは、ぼくにとってはほとんど未知数だったから、1次リーグのうちに、それを見ておきたい、という気持もあった。 
 ただ、この方法だと、アルゼンチンが地元の大衆の圧倒的な応援に支えられて勝ち進むのを、目のあたりにすることはできない。また、前回大会の1、2位である西ドイツとオランダの試合は、1次リーグでは、一つも見ることができない。ワールドカップ38試合のうち、自分の目で直接見ることのできるのは最大限12試合なので、あれもこれもと欲張れないのは、やむをえない。 
 さて、ブエノスアイレスからマルデルプラタヘ飛ぶ飛行機の中で、地元の英語の新聞を読んでいたら、前日の開会式について、こんなふうに書いてあった。 
 「観客席の大衆は、たいへんお行儀がよくて、うちのおばあちゃんを連れてきてもよかったくらいだった」 
 やっぱり、そうだったのか――とぼくは思った。開会式は、着飾った中流階級以上と見受けられる人たちが、家族連れでいい席を占領していて、たしかに明るく楽しい雰囲気ではあったけれど、大衆のスポーツであるサッカーの祭典らしい、騒然としたところはなかった。 
 大統領以下、軍事政権のお偉方がそろって居並ぶ前で、オリンピックみたいに整然と見事な開会式をして、おおいに国の威信を高めたつもりらしい。アルゼンチンの国が意外に安定していて、組織力もあることは、確かにこの開会式で印象づけられた。 
 しかし、あのお行儀のよさは、どこか本物ではない。あまり整然としては、サッカーは面白くない。やがては、軍事政権のお偉方の思惑を離れて、大衆に支えられたスポーツであるサッカーの素顔が出てくるにちがいない。そうでなくてはワールドカップじゃない。マルデルプラタへ行く飛行機の中で、そう思った。 

揺れるブラジル陣営 
 ボーイング737で1時間足らず。マルデルプラタに着いて、その日の午後の試合はイタリア−フランスだった。アルゼンチンにはイタリア系の住民が多く、特に漁業の中心地である港町のマルデルプラタには、イタリア系の住民の大きなコロニーがある。午前中から、繁華街をイタリアの大きな国旗を窓から突き出した車が「ブー、ブー、ブブブ」とクラクションを景気よく鳴らして走り抜ける。なにやら騒然とお祭りらしく「ワールドカップは、これでなくちゃ」という雰囲気になってきた。          
 翌日、6月3日がブラジルの第1戦だ。ブラジルから乗り込んでいる5000人のファンが試合の前に、町を練り歩き、スタジアムのまわりでラッパを吹きならし、サンバを踊って、これはもう完全に「ラテンの国のワールドカップ」のムードだった。 
 だが、大会前に優勝候補のトップにあげられていたブラジルの試合ぶりは冴えなかった。前半は相手のスウェーデンのほうにいいチャンスが多く、38分に先取点を奪われた。同点に追いついたのは、前半46分、つまり主審がロスタイムをとって延ばしている時間での、ぎりぎりのゴールだった。  
 後半はブラジルが態勢を立て直して優勢だ。だが決め手はない。試合終了の直前に右コーナーキックにジーコが飛び込んで、みごとなヘディング・シュートを決めたが、主審はネリーニョがコーナーキックをけった直後に試合終了の笛を吹き、この決勝点は“まぼろし”に終わった。1−1の引き分け。前後半とも「46分」にゴールを決めるようでは、ブラジルの攻めに迫力がなさすぎる。  
 ブラジルの第1戦のメンバーは、図1のとおりである。伝統の4−3−3で、右ウイングのジウはタッチラインいっぱいに張り出しているがレイナウドはやや内寄りにいて左ウイングにスペースをあけている。  
 ジウは後半21分に引っ込められ、2番をつけていた右フルバックのトニーニョが右ウイングにあがり、そのあとにネリーニョがはいった。同じ選手がフルバックもやり、ウイングもやる。これはちょっと興味深かった。
  ブラジルの第2戦は6月7日。相手はスペインである。このときのメンバーは、第1戦の後半、ジウが引っ込んだあとと、ほとんど同じである。ただ、中盤のリーダーである主将のリベリーノは、右足首が捻挫で丸太のようにはれあがり、左足の甲も痛めて欠場、代わりにディルセウが出た。0−0の引き分け。いわゆる“中盤の底”にいるバチスタを中心に、ブラジルが守備の強さを示した試合だったが、リベリーノのいない攻撃には、ほとんど見るべきものはなかった。
 2試合連続の引き分けに、ブラジルのファンも、350人以上の同行記者団も、いらいらしたらしい。ファンが海岸沿いの大通りで、コウチーニョ監督の人形を焼き、新聞記者は「コウチーニョはクビ」というニュースを流した。 
 「コウチーニョはクビ」というニュースは翌日の記者会見でただちに否定されたが「監督の座に名目的に留まるだけで、権限はブラジル・サッカー協会(CBD)の技術委員会に取りあげられている」というもっぱらのうわさだった。 
 第3戦の前々日の記者会見で、コウチーニョ監督自身が「次の試合では、メンバーもやり方も変える」と発表したけれども、第3戦のメンバーをみて、ブラジルの記者たちは「これはコウチーニョじゃなく技術委員会が決めたんだ」といっていた。 
 真相はともかく、6月11日の第3戦、オーストリアとの試合のメンバーと戦法は、がらりと変わっていた。 
 布陣は図2のとおりで、伝統の4−3−3を棄ててツートップ。前線の両サイドをあけている。 
 トップの2人のうち、ジウは第1戦の途中で引っ込められ、第2戦は先発からはずされた選手。ロベルトはこれがワールドカップ初登場である。中盤のいちばん前のメンドンサも第2戦の最後の6分間、交代で出ただけの選手だ。 
 つまり、攻撃メンバーの3人は、第1戦と第2戦では主力でなかった選手である。リベリーノは、この試合も欠場。ちょっとベッケンバウアーに身のこなしの似ている長身のトニーニョ・セレーゾが主として中盤からパスを出した。  
 結果として、このブラジルの方向転換は成功だった。得点は1−0だったが、ブラジルの前線の選手は奔放な動きをみせてオーストリアを圧倒、2次リーグ進出を決めた。  
 コウチーニョ監督は、ヨーロッパの激しいサッカーに対抗するために、ブラジルの選手にも激しい守りのサッカーを要求していた。
 守りの面では、それが一応成功していたのだが、ラテン気質のブラジルの選手たちには、奔放な攻撃のサッカーのほうが向いている。方向転換の成功したわけは、そこにある。  
 しかし大会中に監督の座を動揺させたことは、今後に悪い影響を及ぼすかもしれない。また、圧倒的に攻めながら1点しかとれなかったことも、2次リーグ以後への不安の材料である。
 
 


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