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サッカーマガジン 1978年7月10日号

“若さ”と“可能性”のキックオフ
アルゼンチン’78開幕レポート
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 アルゼンチン・ワールドカップは6月1日、ブエノスアイレスで開幕した。開幕戦の西ドイツ−ポーランドは0−0の引き分けで終わったが、このアルゼンチンでの大会は、何か特殊な雰囲気をもっている。
 どんなチームが勝ち進むのか? どんな選手が新しくスターのリストに載るのか? 興味あるところである。

静かな中で若さが躍動
 アルゼンチンの6月は冬の初めでかなり冷え込む。男性は皮のコートを着込み、ご婦人方は毛皮のコートをはおっている。6月1日午後、ブエノスアイレス市のリバープレート競技場。
 第11回FIFAワールドカップの開会式は快晴に恵まれ、気温17度と比較的暖かかったけれども、会場の入口の列には冬じたくの家族連れの姿が目立った。
 最も高額の通し切符で売られた指定席を手に入れたのは実に中産階級以上の人たちのようだ。サッカー・スタジアムの常連である大衆は、ゴール裏の天井桟敷の立見席だった。彼らはライトブルーと白に染め分けた毛糸の帽子をかぶり、同じ色のアルゼンチンの国旗を打ち振っていた。
 それにしてもワールドカップの開幕にしては少しおとなしい。そんな印象の開会式だった。8年前のメキシコのあの陽気でカラフルなお祭り騒ぎや、4年前の西ドイツのけたたましい応援合戦に比べると、シンプルで色彩も乏しい。ときおり「アルヘンティーナ」の大合唱が天井桟敷から沸き起こるけれども、それも長くは続かない。比較的静かな開幕だったといっていいだろう。
 これは冬の初めという気候のせいもある。シンプルな国旗のカラーのせいもある。だがそればかりではないようだ。アルゼンチンには同じラテン・アメリカの国でもメキシコやブラジルとは違ったムードがある。それが開会式の雰囲気にも出ていたのではないだろうか。
 そのムードは国歌の吹奏のときにジーンと胸に響いて来た。明るく力強いメロディーが場内に響き始めると、7万の観衆が皆立ち上がってそれこそほんとうに一人ひとりが声を張り上げて歌い始めた。
 「リベルタ、リベルタ……、アルヘンティーナ」
 大合唱がスタンドにこだまし、はけではいたような薄い雲の浮かぶ高い青空に舞い上がっていく。
 今から150年ほど前に自由と解放を求めて決起し、スペインから離れて独立したこの国は、それ以来国内では政権争いでクーデターを繰り返しているが、外国との戦争は経験していない。スペインとイタリア系の移民が人口の97パーセントを占め、黒人がいないから、他のラテン・アメリカの国に比べて社会の構成そのものがシンプルなのだ。2度の大戦を経験したヨーロッパやアジアから最も遠く離れている……“地球の裏側”である。
 それだけに150年前に祖先が求めた自由と解放の精神を、アルゼンチンの団結のよりどころとして、純枠に培養してきたように思われる。
 だから8年前のメキシコで見たような、黒人やインディオの入り混じった野放図さは、ないのかもしれない。
 また4年前の西ドイツでは国境を接したオランダやイタリアから応援団がなだれ込み、ポーランドやユーゴスラビアから出稼ぎに来ている労働者が加わって、スタンドは国際色豊かに騒然としていたけれども、ここではスタンドも95パーセント以上が皆「アルヘンティーノ」で、応援はただ一つの色である。
 比較的静かで整然としていた開会式には、またそれなりのよさがあった。
 若い高校生たちが国際サッカー連盟(FIFA)加盟の140数カ国の国旗を持って入場、選手団のかわりにこれも高校生が16チームの国旗とそれぞれの国の民族衣装で着飾った男女を先頭に行進した。
 1700人の男女の高校生が体操のマスゲームを繰り広げ「アルゼンチン78」のマークと「ムンディアル・FIFA」の人文字を描いてみせた。そのたびに、7万人のスタンドから割れるような拍手が送られた。
 緑の芝生の上に若さが整然と、しかものびやかに躍動していた。

サッカーがなくなるくらいなら……
 この整然としたシンプルな開会式は「アルヘンティーナ78」のこれからを象徴しているのだろうか。これは必ずしもそうとはいえないようである。
 開会式を終わった時点で見ても、今回のワールドカップには、あまりに多くの広い可能性が残されているように見える。
 開会式では比較的おとなしかった大衆は、翌日から登場する地元のチ一ムが勝ち進めば、一転して熱狂する巨大なうず巻きになって国中をのみ込むかもしれない。メノッティ監督の率いるアルゼンチンの比較的若いチームには、その熱狂を巻き起こすだけの未知の魅力が秘められている。
 だがアルゼンチンは1次リーグでは最も手強い相手ばかりのグループに属している。ハンガリー、フランス、イタリア、いずれもベスト8に進出する力を持ったチームであり、一つのつまずきが命取りになりかねない。
 かりにそうなったときにアルゼンチンの大衆はどう反応するのだろうか。これも見当のつきかねることの一つだった。
 ワールドカップは、軍事政権のもとにあるこの国の未来に、どのような意味を持っているのだろうか。この点でも可能性が広く大きく開けているようだ。
 開会式は目立たないが、しかし、きびしくガードされていた。競技場から3キロ以内はあらかじめ交通を遮断して危険物がないかを徹底的に捜索した。入場者は競技場周辺にはいる手前で一人ひとり手荷物の検査をされた。小粋な制服の婦人警官がにこやかに丁重に応対しながら、しかし鋭いチェックをした。
 スタンドの後方には私服の警官が観客に混じって並んでいた。アルゼンチンには軍事政権に反対する過激派のゲリラが根強く残っている。最も有力なゲリラ組織といわれる旧ベロン左派のモントネロスは、前年の3月に「ワールドカップの開催を妨害しない」と“サッカー休戦”を宣言したけれども、組織外の一匹オオカミがなにをしでかすかわからない。現に、開幕の3週間前に大会でプレスセンターに使う建物の地下ガレージに爆弾が仕掛けられ、警官1人が死亡、1人が重傷を負っている。
 軍事政権が大会を前に2年がかりで徹底的な弾圧をしてもこの始末だから、ワールドカップが終わったあと、“休戦”が解けたらどうなるのだろうか。
 アルゼンチンは経済的にも苦しい状況で国民はインフレに悩んでいる。その中で、政府は大会を開くためにかなりの無理をしている。
 たとえばこれまではアルゼンチンにはカラーテレビがなかったが、ワールドカップでは95カ国にカラーテレビの宇宙中継が行われた。そのためのカラーテレビ・スタジオと中継ステーションを建設するために、アルゼンチンは西ドイツから6000万ドル(約200億円)の借金をした。大会のために政府が使ったといわれる経費は総額7億ドル(約2300億円)といわれる。
 せっかくカラー放送の設備をつくっても、国民の家庭にはカラーの受像機はない。カラー放送は海外向けである。市内の劇場でカラーテレビの放映をスクリーンに映して見せているところがあり、市民が長い行列をつくっていた。大会が終わったあと市民はますますひどくなるインフレに苦しむのだろうか。それともやがては各家庭にカラーテレビがはいるようになるのだろうか。
 さて、そうはいってもアルゼンチンのワールドカップが重苦しい空気に包まれて行われたのだと思ってはいけない。アルゼンチンの大衆にとってサッカーは単なる気晴らしではない。サッカーは生活の一部なのだから、サッカーを失うくらいなら、多少のことは犠牲にしたってかまわないというお国がらである。だからこそゲリラも“ワールドカップ休戦”を宣言するわけだ。
 6月中は官庁も企業も試合のある日は、仕事は半ドンになるだろうという話だった。 


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