アーカイブス・ヘッダー
     

サッカーマガジン 1977年7月25日号

「欧州遠征」」で新人・若手をどう鍛えるのか
釜本抜きで再スタートした二宮・全日本    
 (1/2)   

 二宮寛監督の率いる日本代表チームは「1FCケルン」との4試合とソウルでの日韓定期戦を終えて、2カ月にわたるヨーロッパ・キャンプに出発した。日本代表からの“引退”を宣言した釜本邦茂選手の姿は、その中にはもうない。 
 これはモスクワ・オリンピックを目ざし、若い力を結集して新しいチームをつくろうとする“二宮全日本”の再スタートである。もちろん「釜本なしでやれるのか」という不安は暗い影となって前途に立ちこめている。 
 しかし――。 
 ケルンとの試合で新たに起用された若い選手たちの、のびのびとしたプレーぶりは、その中に射し込んだ夜明け前の一筋の光だとはいえないだろうか。

新星の登場に光を見た
――幸運もまた財産である――

 「パウロ・セザールに似ているな」 
 国立競技場の記者席から双眼鏡でのぞいてみて、そう思った。プレーぶりではない。顔つきが、である。ブラジル代表の“わざ師”パウロ・セザールに似た感じの愛嬌のある顔だ。 
 「1FCケルン」を迎えて行われた6月1日の第1戦、後半24分に登場した金田喜稔選手(中大)を、ぼくはそのとき、初めて認識した。 
 続いて「高校生の日本代表」で話題になっている高橋貞洋選手(帝京高)も、負傷した奥寺に代わってフィールドにはいった。3万5000の観衆からわき起こった拍手は、ひときわ大きかった。 
 二宮監督は、このケルン戦を機会に日本代表に新顔を9人加えた。ゴールキーパーの佐藤(古河)のほかは、20歳前後の若手ばかりである。その大胆な新顔起用のねらいを、いぶかる声も多かった。その若手の中で、もっとも年少の17歳の高橋と19歳の金田が、第1戦でまずデビューしたのだった。 
 10分もたたないうちに、好奇心は驚きに変わった。 
 「やるじゃあないか」 
 特に良かったのは金田のほうである。 
 初出場の日本代表にいきなりはいって、おめず憶せず、ボールをもらいに動き、大胆にドリブルで抜こうとする。そのドリブルがなかなか速く、タッチが確実で巧みである。 
 高橋のほうは、さすがに硬くなっていた。どこへ走ったらいいのか見当もつかないふうだった。帝京高監督の古沼先生はスタンドで見ていて「ハラハラして、いてもたってもいられなかった」そうである。 
 後半36分に日本が1点をあげた。ブンデスリーガのチームを初めて破った決勝の1点である。 
 この貴重な得点には、金田も、高橋もからんでいる。 
 後方から藤島の出したボールを、中盤で高橋がとった。少し戻り気味のドリブルをして釜本にパスを戻す。夢中でボールをとって、どうしようかと上ずっているときに、サポートに寄ってくれた釜本が目にはいって、ホッとして渡した感じのパスだったが、それでもいい。とにかく高校生の新人がデビュー試合で貴重な勝利の、貴重なゴールに一役買ったのである。 
 釜本はドリブルで攻め上がり、左サイドいっぱいに展開していた金田に大きなパスを振った。 
 金田のほうは落ち着いた感じだった。確実にボールをキープし、頭を起こして広い視野で状況を読み、逆サイドにフリーで走り込む永井をとらえロビングを送り、永井の飛び込みざまのヘディングがゴールを割った。 
 貴重なゴールに新人2人がからんだのは、偶然かもしれない。特に高橋のほうは夢中でやっているプレーが、たまたま攻めの一つの輪になった形だった。 
 しかし、スポーツの選手にとって幸運もまた一つの財産である。新星のデビューに幸運がほほえんだのは若い全日本の未来を示す吉兆のように思われた。 
 もちろん、幸運だけがすべてではない。 
 6月5日の第2戦で、金田はフル出場してドリブルで抜き、パスをつなぎ、ダッシュしてシュートを放った。 
 この試合では後半31分に21歳の横山正文選手(新日鉄)が出て、すぐに左サイドで右のバックのコノプカを抜き去る思い切ったドリブルを見せた。 
 こういう若いプレーヤーのデビューぶりは、これまでの日本代表選手たちの登場ぶりとは、どこか違ったところがある。 
 一人ひとりが、新鮮な感覚の、自分自身のプレーを持っていて、日本代表の先輩たちの中にいきなりはいっても、平気でそのプレーを出そうとする。 
 従来の選手たちは、日本代表の中で鍛えられ、教えられながら育った感じで、永井や西野のような個性的なものを、ちらちらさせた選手も、はいったり、はずされたりして、なかなか自分のプレーを出せなかった。 
 ところが、今度新たにはいってきたヤングたちは違う。本場のプロの強豪を相手に、堂々と自分の得意わざで勝負しようとする。 
 このような感覚の若者たちが、すそ野の広がった少年サッカーの中から生まれてきたものだとすれば、次から次へと新しい個性的なタレントが出てくることも夢ではない。 
 そうだとすれば、ケルン戦での新星の活躍は、若い全日本の前途に見えた一筋の光だといえるのではないだろうか。

「釜本なしでやれるのか」
――不安な材料も多いけれど――

 そうはいっても、不安な材料も、もちろんいっぱいある。その中でも、過去13年間にわたって日本のエースだった釜本邦茂選手が日の丸のユニホームを脱ぐ決意を固め、しかも、その間のいきさつに割り切れない印象を残しているのは、最大の不安の材料だろう。 
 ケルンとの第1戦に勝ったのは、たしかに良かった。新人にとっては幸先のいいデビューだったし、チーム全体の試合ぶりも悪くない。特に守備ラインのコンビネーションによる守りが良かったように、ぼくは思う。
 ケルンは、オベラーツを軸に、壁パスによる突破を何度も試みた。 
 最初のパスで1人がはずされる。相手が走り込んでくる。それを次のディフェンダーが確実につぶし、他にも穴をつくらなかった。 また、中盤の西野と古前田の守備面の弱さを、藤島がいつものように労働量の多い、忠実な動きでカバーした。昨年のムルデカ大会以来、藤島を、中盤の底(守備的なハーフ)に使って、その良さを引き出したのは、いままでのところ、二宮監督の最大の成果だろうと思う。 
 けれども、ケルンからあげた、たった一つの白星を過大評価することは決してできない。二宮監督自身が試合のあとで語ったように「相手の状態が状態だけに、負けるようではいけなかったでしょう」という程度のことである。 
 ケルンは西ドイツ・カップ決勝の再試合に死力を尽くして勝ち、そのまま飛行機に乗って、試合当日の朝、東京に着いたばかりだった。それに西ドイツ代表の南米遠征に加わったディーター・ミュラーとフローエが抜けていた。コンディションは悪かったし、ベストメンバーでもなかった。 
 それにしても、「勝ったのは悪くない」ということはできる。しかし、このケルン戦の日本代表には、釜本がはいっていたのだ。しかも得点をあげた場面ではチャンスをつくる決定的なパスを出し、どの試合でも中盤から前線にかけて、もっとも重嘆な役割を果たしていたのは釜本だった。 
 その釜本が抜けて、本当に大丈夫なのか?――これは、だれもが抱く不安だろう。 
 ケルン戦の半月前、日本サッカー協会は日本代表の新しいメンバーを発表したとき「釜本はケルン戦だけ出場して代表からはずれるが、来年のアジア大会、ムルデカ大会などタイトルのかかった大会で最強チームの編成が必要な場合、再び代表に加わる」と説明していた。
 その前も、またその後も、そしてケルン戦の間にも、サッカー協会の長沼専務理事や二宮監督は、何度か釜本選手とひざをつき合わせて話し合いをしたそうだ。しかし「日の丸のユニホームを脱ぐ」という釜本選手の決意は固く、二宮監督も「一応、区切りをつけたいんなら……」とやむなく了解したのだという。それでもなお「将来、もし必要な場合が生じたら」復帰を要請する意思を、二宮監督は捨て切れないようだった。
 「釜本なしでもやれるのか?」
 ぼくは率直な質問を二宮監督にぶつけてみた。
 「うーん。やっと後のほう(守備ライン)はメドが立ってきたところなのに……」 
 と二宮監督は口ごもった。 
 「とにかく、中盤は西野、金田、古前田あたりに、もっともっと伸びてもらいたい。それに前のほうに人がほしい。横山はウイングとして期待できると楽しみにしているけど、永井と奥寺には、もうひと皮破ってもらわないと……」 
 ぼくの見るところでは、守備ラインにだって不安はある。ケルンとの試合では、守りについては良くやったけれど、攻めにまわったときにはボロが出た。清雲や藤島が前線に出すパスは、80%はケルンの選手に読まれていた。 
 しかし、釜本にいつまでも頼るわけにはいかないのだから、ここで開き直って、どん底から新しいものをつくり出す決心をする時がきたのではないだろうか。 
 二宮監督は「釜本」という安全なカードを一枚握ったうえで新しいチームづくりをしたかったのかもしれないが、それが消えた以上、背水の陣の覚悟をするほかはない。 
 幸いにして次のタイトルマッチまでは、まだ時間の余裕がある。アジア大会は来年の12月、オリンピック予選は明後年である。
 「再来年の、それもあとのほう(秋ごろ)がいいですね、オリンピック予選は。そのころになれば……」二宮監督も、腹の底では、釜本なしの再出発の決意を固めているようだった。


アーカイブス目次へ
次の記事へ

コピーライツ