2 西ドイツ――絶妙のオベラーツ
6月13日の開幕試合を見て、その日の夜行列車で西ベルリンに向かった。フランクフルト−西ベルリン間は、飛行機なら1時間の距離だが、2カ月前に日本から申し込んだらすでに満席だった。やむなく東ドイツ領内を通り、8時間がかりの汽車の旅である。
日本と違ってヨーロッパの列車は、がらがらにすいているのが常識だが、午後10時33分フランクフルト中央駅発のこの列車だけは例外だった。寝台車はもちろん無理。座席の方も、列車がホームに入ると同時に満席である。大会関係者のために半額割引きになった1等のパスを持っていたが、2等にまわり、3人がけのところに割り込んで4人がけで、やっと座席を確保した。もちろん、お客は全部、14日にベルリン・オリンピック・スタジアムで行なわれる地元西ドイツの第1戦、チリとの試合を見に行く人たちである。
西ドイツのヘルムート・シェーン監督は今回、非常に困難な任務を背負わされている。
第一の課題は、西ドイツの国民の間にそれぞれ熱狂的な支持者を持っている3人のスター、つまりベッケンバウアー、オベラーツ、ネッツァーの三つの個性を巧みに使いこなさなければならないことである。
3人とも、それぞれ、きわ立った特徴を持つプレーヤーであり、しかも3人とも、チームのリーダーになるべきプレーヤーである。このうちの2人を一つのチームの中で両立させることさえ、容易ではない。しかし、ベッケンバウアーは守備の中心として欠かせないから、中盤でオベラーツとネッツァーをどう使うかが、問題だった。ベルリンでの第1戦は、この問題に対して、どういう答をファンに示すかという点で、特に注目を集めていた。
シェーン監督の第二の課題は、1次リーグで同じグループに入った東ドイツとの初のナショナル・チーム同士の対決をどうこなすかであり、最後の課題は、もちろん地元で絶対に優勝しなければならないということである。このあとの二つの課題に解答を出すためにも、まずオベラーツとネッツァーの問題を解決しなければならない――ということは、このあと大会の展開とともに明らかになってくる。
ベルリンは晴れだった。試合は夕方の4時からだが、ドイツの夏は日暮れが遅く、夜行列車で寝不足の目には、日射しがまぶしかった。
キックオフの20分前、電光掲示板に双方のメンバーが出ると同時にアナウンスがある。西ドイツの最初のイレブンには、オベラーツの名があって、ネッツァーの名はなかった。控えの5人のプレーヤーの中にさえ、ネッツァーは入っていなかった。8万3千の観衆の嘆声が、最初はどよめきのように響き、やがてスタジアム全体から立ちのぼる巨大な陽炎のように、日射しの中を立ちのぼるように思われた。
オベラーツの中盤のパスは素晴らしかった。前年“1FCケルン”とともに日本に来てみせた左足の魔術には、さらに洗練された鋭さがあった。
前半18分、後方からのパスを、かかとで残して前方へ走る。それをスクリーンして受けたハインケスから中盤のパスが糸のようにつながり、攻め上がったブライトナーのシュートで西ドイツが1点をとった。
オベラーツのパスは、簡明で単純である。徹底的に左足だけでキープし、左足のアウトサイドで、あるいはインステップで、さりげなく糸を引くようなパスを出す。
西ドイツの攻撃は、この簡単なパスから、複雑なチームプレーの組織を組立てていた。このパスの組み立ての鮮やかさは、これまでの世界のサッカーになかった精細で鋭いものだった。味方の裏側をまわってオーバーラップして出るバック・プレーヤーへのパス、ゴール前の僅かなオープン・スペースへ出たミュラーへのパス、密集の中へ突っ込むミュラーとの壁パス、すべてはオベラーツの左足からはじまっていた。
後半30分にオベラーツが軽い負傷をして退場し、ヘルツェンバインが出た。得点は1−0のままだったが、試合は一方的で西ドイツの勝利に危な気はなかった。
西ドイツの第2戦は、6月18日にハノーバーで行なわれた。この試合はフランクフルトに戻ってからテレビで見た。西ドイツの試合は、他の会場の試合と時間をずらして行われるから、別の試合の都市に行っていてもテレビで必ず見ることができる。この日も午後7時半からのブラジル−スコットランドを見に行く前に、午後4時からの西ドイツ−オーストラリアをテレビで見たわけである。
オーストラリアは、すばらしい健闘を見せていたが、西ドイツは危な気なく組織のサッカーを展開して3−0で勝った。ネッツァーは、この日は控えの5人の中にいた。
オベラーツの左足は、いぜんとして西ドイツの軸だった。オベラーツが絶妙のプレーを見せるたびにテレビはベンチにいるネッツァーの表情をクローズアップで写し出していた。
3 東西の対決――シェーン監督の悩み
西ドイツの第3戦は、6月22日。有名な港湾都市ハンブルクが舞台である。そしてこの試合こそ、困難な課題のうちの二つが、二重写しにされて、シェーン監督に迫ってきた1次リーグの一つの焦点だった。
この日は、他の都市での3試合が午後4時から先に行なわれ、西ドイツと東ドイツの試合はそのあと午後7時半キックオフだった。西ドイツはすでに2勝をあげており、東ドイツも1勝1引き分け。この日、タ方ベルリンでの試合で同じグループのオーストラリア−チリが引き分けたため、キックオフの時点で、すでに東西両ドイツとも、2次リーグ進出が決定してしまっていた。
したがって、競技的には、いわゆる“お花見試合”で、どちらが勝っても、それほどの重要性はなかった。しかし第2次世界大戦のあと鉄のカーテンにへだてられた東西ドイツの民衆が、国民的スポーツであるサッカーで、初めてのナショナル・チーム同士の対戦を迎えたのだから、彼らが多くの試合の中の単なる一つとして、淡々とした気持ちで、これを見たとは、とうていいえない。
西ドイツ側からは、シュミット新首相をはじめ主要閣僚がこぞってボンから乗り込んで観戦し、競技場で閣議が開けると新聞に書かれていた。この事実が、問わず語らずに、西ドイツの人びとの国民感情を示している。
シェーン監督にとっては、これは大きな悩みの種だっただろう。シェーン監督は前日の記者会見で「この試合は、けっして“威信”のためのものではない」と強調していたが、シェーン監督はそう思わなくても、また西ドイツの人たちが口では「これはスポーツなんだから――」といっても、国民的感情の無言の圧カを、シェーン監督がひしひしと感じなかったはずはない。
“お花見試合”になったために、かえってシェーン監督のジレンマは深くなっただろう。
ふつうなら双方にとって、これは“実験的試合”である。負けてもいいのだから、疲れのひどいベテラン選手を休ませ、2次リーグに備えて新しい戦術の実験をしてみることもできる。引き分けであれば、双方、傷つかずである。
しかし、東が威信をかけて勝とうとしてくるならば、「西」もこれを受けて立つほかはない。最終的にワールドカップで優勝するためには、ここでやり方を変えてみたい、あるいは手を抜いてみたい、とシェーン監督が考えたとしても、それはできない状況だった。
西ドイツの11人の中には、またもネッツァーの名はなかった。シェーン監督は、とにかく第1戦、第2戦と同じサッカーをして、少なくとも負けないための安全策をとろうとしたことは明らかだった。
西ドイツの中盤の組み立ては、相変わらずあざやかで終始、優勢だった。しかし東ドイツのマンツーマンの守りは固く、逆襲の速攻も鋭かった。終盤近くまで0−0。「このまま引き分けなら無事」と思ったのは、われわれ外国人記者の考えだっただろう。
スタンドを埋めた西ドイツの大衆は、じりじりしていた。「ヨーロッパ・チャンピオンのわがチームが“東”に勝てないはずはない」という不満が、今にも爆発しそうに競技場の中に充満してきた。
後半20分すぎになって「ネッツァー!ネッツァー!」の呼び声がスタンドのあちこちから起きた。背番号「10」がベンチから出てウォーミングアップを始めると隣の席にいたドイツ人の記者が、われわれにも分かるように「カイザー・イズ・カミング」と英語でどなった。
後半23分、シェーン監督はまずシュバルツェンベックを、ヘッティゲスに代えた。続いて24分オベラーツが去り、ついに“カイザー(帝王)”ネッツァーが登場した。
オベラーツが去り、ネッツァーが入って、西ドイツの試合のやり方が、がらりと変わったことは確かである。1人のプレーヤーによって、チームがこうも変わるものかと驚かされる。ネッツァーが入ってから、攻めの組み立てが直線的で力強くなった。しかし守りの点では前線でのチェックの余裕が少なくなり、逆襲を受けやすくなった。
オベラーツは、簡単なパスで複雑な攻撃を組み立てる。ネッツァーは、複雑なパスで直接的な攻めをねらう。ネッツァーが登場して最初に出したパスは、浮きダマに逆回転のスピンをかけ、一つの地点にぴたりとボールが止まることをねらったものだった。
ネッツァーの登場後、後半32分に東ドイツは見事な逆襲のゴールをあげて、この歴史的な試合をものにした。
そのために、多くの人たちが、この敗戦をネッツァーのせいにするに違いない。
だが、オベラーツにはオベラーツのサッカーがあり、ネッツァーにはネッツァーのサッカーがある。シェーン監督は、この2種類のサッカーを使い分けるつもりだったのではないだろうか。
この試合が単なる“お花見”だったら、シェーン監督は、2次リーグに備えて、はじめから“ネッツァーのサッカー”を実験していたのではないかと思う。
しかし“東西の対決”を押し包んだ空気が、その実験を許さなかった。最後の20分に実験を試みて西ドイツは敗れた。試合の途中で急に戦術の流れを変えることは、西ドイツほどのプロフェッショナルにとっても、至難のわざだったからである。
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