●新しいサッカーの王様は誰か
今度のワールドカップの最大の焦点は、ペレに代わる世界のサッカーの王様は誰か、ということであろう。
20年以上前、ぼくが学生だったころに、はじめて名前を覚えた外国のサッカーの選手は、スタンリー・マシューズだった。50歳の誕生日を過ぎるまで現役で活躍し、エリザベス女王からサーの称号を授けられたイングランドの不滅の名選手は、ペレと同じような意味の「世界のスター」だったとは、いえないかも知れない。しかし、マシューズは、第2次世界大戦後のイギリスのサッカーを代表した名前である。マシューズは、当時のWMフォーメーションの生んだ名ウイングであり、右ウイングの位置を示す背番号「7」は、常にマシューズと共にあった。
マシューズの次に知った外国選手の名前はフェレンツ・プスカスである。プスカスの華やかだった時代は、そう長くはない。ハンガリーが1952年のヘルシンキ・オリンピックで優勝し、翌年ウェンブレー・スタジアムで地元のイングランドに歴史的な敗北を味わわせた当時のエースであるが、1956年のハンガリー動乱のさい、たまたま所属チームのホンベドが西側へ遠征中で、プスカスはそのまま亡命してプロになった。
プスカスは、その後、スペインのレアル・マドリッドなどで活躍しているが、彼が本当に、世界のサッカーの一時期を代表したのは1950年代前半のハンガリーのナショナル・プレーヤーとしての試合だろうと思う。というのはプスカスは、インサイド・レフトとして背番号10をつけていたが、当時ハンガリーのナショナル・チームは、9番のセンター・フォワードが中盤に下がった「M型」の布陣をとっていて、プスカスは実際には“左のセンター・フォワード”だったからである。つまり、世界のサッカーが、WMから4・2・4に移行する一時期のストライカーとしてプスカスは「世界のスター」だったのである。
1958年のワールドカップから今日まで「サッカーの王様」だったペレについては、多くを述べる必要はないと思う。ペレはプラジルの4・2・4とともに世界にデビューし、終始、背番号10をつけストライカーとして、時にはミッドフィルダーとして世界に君臨した。
さて、西ドイツのワールドカップは、ペレに代わって誰を王座につけるだろうか。
1970年のメキシコ・ワールドカップ以後、世界のサッカーはすでに新しい時代に入っているといっていいと思うが、ペレがあまりに偉大だったために、新しい王様の登場は遅れていた。現在のサッカーを代表しうる素質をもっとも多く持っているのは、西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーだろうとぼくは思うが、ベッケンバウアーがペレの後継者になるとは断言できない。ワールドカップは常に未知のスターを生み出す可能性を秘めており、そこにワールドカップの魅力の秘密があるからである。
●ハーフタイムの少年サッカー
「牛木さんのアイデアをやらしてもらいましたよ」
日本サッカーリーグの井上総務主事が、ニコニコ笑いながら話しかけてきた。
4月28日に東京・西が丘サッカー場で行われた古河−日立の試合のときである。
この試合のハーフタイムに、古河少年サッカー・スクールと日立少年サッカー・スクールの選手による試合があった。試合といっても10分足らずの時間だから、ちょっとしたアトラクションといった程度である。
前半が終わって両軍のチームがロッカールームに引き揚げると、入れ替わりに少年チームが登場してくる。日立の少年チームは、上下とも黄色のユニホーム、古河の少年チームはブルーの縦じまのユニホーム。つまり、引き揚げてゆくおとなの選手と、まったく同じ服装のチビッ子が出てくるわけで、その対照が面白い。
このようなハーフタイムの少年サッカーは、日本リーグでは、これが初めての試みだった。が、中南米やヨーロッパではよくやっている。
ぼくが初めて見たのは、メキシコに行ったときで、アステカ・スタジアムで見たメキシコ・リーグ1部(もちろんプロである)の試合のハーフタイムだった。アステカ・スタジアムでは、ロッカールームヘの通路が地下道になっている。両端の地下道ヘプロの選手たちが消えるのと同時に、同じユニホームのチビッ子が出現したのが非常に鮮烈な印象だった。
それ以来、日本でもああいうことをやってみたらどうか、と折りに触れていっていたものだから、井上総務主事は「牛木さんのアイデア」といったのである。
その後、東京では、試合のたびに一般の少年たちに呼びかけて参加者を集め、当日集まった少年たちで臨時にチームを編成してハーフタイムマッチをやっている。ユニホームはリーグの色と同色のものを用意して貸してやっている。
日本リーグのPRのために、新しいアイデアをとり入れたのは、結構だと、ぼくは思う。ことしの日本リーグは、新企画をつぎつぎに打ち出して、なかなか積極的である。
ただ、メキシコでは、ハーフタイムに出てきた少年選手は、おとなのチームと同じクラブに属している少年チームだったことを、井上総務主事をはじめリーグの関係者にお知らせしておきたい。プロのおとなと同じユニホームを着ていたのは、同じクラブを代表する選手として当然のことだったので、これは単なるアトラクションではない。
●オリンピックの参加資格
先ごろ、IOC(国際オリンピック委員会)の規則第26条の改正案が発表された。この規則第26条は、オリンピックに参加できる資格を定めたもので、いわゆる“オリンピックのアマチュア・ルール”である。
その中に「プロの参加する世界選手権大会に出場した選手は、オリンピックに参加させない」という一項目があった。
これはサッカーのワールドカップ(おそらく予選もふくむことになるだろう)に出た選手は、オリンピックには出さないというわけである。
サッカーの事情にくわしい人なら先刻ご承知で、この規則は、けっして新しいものではない。1960年のローマ・オリンピックのとき、すでにFIFA(国際サッカー連盟)の決定によって、ワールドカップ決勝大会出場の選手はオリンピックに参加できないことになっていた。1962年のチリのワールドカップのときのFIFA総会で、この制限は、ワールドカップの予選出場者にまで拡大された。
ただし、日本などの強硬な主張で1964年の東京オリンピックに限っては、アジア・アフリカ・グループの国は例外とすることになっていた。
ところが日本のようにプロ・サッカーがなく、トップレベルの選手層のうすい国では、ワールドカップ用とオリンピック用の二つの代表チームを作るのは困難である。
そこで1966年のFIFA総会で日本など主としてアジアの国が中心になって、この規則の廃止を提案した。その結果、現在のFIFAの規則では、「原則としてはワールドカップ(予選もふくむ)に参加した選手はオリンピック参加資格を有しない」が、「その国のサッカー協会とNOC(オリンピック委員会)がともに選手たちのアマチュア資格を証明して申請した場合には」例外を認めることになっている。
日本がメキシコ・ワールドカップ予選に出た顔ぶれでミュンヘン・オリンピック予選のメンバーを編成できたのはこの例外条項のおかげである。
今回の改正案は、この制限をIOCの規則の中に入れ、例外条項をなくそうというものである。日本のサッカーにとっては、困ったことであるが、以上のいきさつから明らかなように、この制限はもともと、サッカーの側から出たもので、今回新たにIOCから押しつけられたものではない。
この規則改正が本決まりになったら、日本のサッカーは、ワールドカップを棄ててオリンピックを第一目標にするか、プロ・サッカーを導入する道へ踏み出すか、どちらかしかないだろうと思う。しかし、ワールドカップの魅カがこれほど知れわたったいま、オリンピック至上主義に逆戻りするのは、退歩というほかはない、とぼくは思う。
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