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サッカーマガジン 1972年8月号

朝鮮と中国のサッカー (2/2)    

朝鮮サッカーはなぜ強いか
 走ること、正確にけること、戦術――この三拍子そろって、チョソンの高校サッカーの方が、日本の高校サッカーより強い。この差はどこから出てくるのだろうか。
 「向うの方が、サッカーが盛んだからな」といってしまえば簡単だ。たしかにチョソンでは「サッカーがスポーツの王様」だから小さな男の子は、みなサッカーをやっている。その中から、日本でいえばプロ野球の王や長嶋のような選手が、サッカー選手として育つだろうということは想像できる。
 けれども、底辺が広いだけでは充分でない。底辺から生まれた素材を、すくすくと育てる道が必要である。
 ぼくの見たところでは、チョソンの学校教育制度が、良いサッカー選手を育てるのに実に都合よくできている。
 チョソンの子どもたちは、7歳で人民学校に入る。人民学校は4年生、つまり10歳までである。人民学校では、子どもたちが校庭でボールをけって遊んでいる。
 次の中学校は5年制で、11歳から15歳まで。日本の小学5年から中学3年までにあたる。少年たちは中学でサッカー部に入って本格的な指導を受けはじめる。
 中学までが義務教育だが、高校への進学率はしだいに高くなっている。優秀なサッカー選手は、ほとんど進学するようだ。高校は普通科が3年制、技術学校には2年制、3年制、4年制がある。習志野の対戦した相手は、三つとも技術学校チームだった。
 こういう制度は、サッカー選手を育てるのに、向いている。だれでも知っているように本格的にサッカーをはじめるには、11、12歳ごろが一番いい。そのころに中学にはいって5年間続けて在学するのだから、中学では、第一歩からはじめて、かなり一貫した指導をすることができる。こうして5年間サッカーをやって、16歳ごろになると、サッカーの素質がどの程度か、見分けられるようになるだろう。この時期には高校に入って能カに応じてサッカーをすることができる。
 日本の6・3・3制だと、中学にはいるのは13歳で、本格的にサッカーをはじめるのが少し遅れることになる。そのうえ高校受験、大学受験でコマ切れになる。いきおい、日本の高校サッカーは、その場、その場の大会に勝つためのサッカーになるのではないか。チョソンとの違いは、そのへんから出てくるんじゃないか、と思った。
 もう一つの大きな違いは、チョソンの学校スポーツには、地域の体育クラブとの結びつきがあることだ。
 チョソンの学校では、義務教育では週3時間、高校では週1時間の正課体育の授業があり、そのほかに毎日1時間の課外体育は義務である。
 つまり全生徒が必す課外にスポーツをする。
 この課外スポーツは、必ずしも自分の学校でやるわけではない。サッカーの得意な生徒は、週に3、4回は地域の体育クラブに行って練習をする。
 体育クラブには、ほかの学校からも、サッカーのじょうずな生徒たちが集まってくるからレベルの高い練習を、いっしょにすることができる。
 また、体育クラブには、おとなも、高校生も、中学生もくるわけだから、指導は年代別に行なわれるにしても、若い選手には非常に刺激になるし、また良い指導者の一貫した指導を受けることができる。
 習志野チームの選手たちは、チョソンを離れる前に、最終戦の相手チームだったピョンヤン高等運輸学校の選手たちといっしょに、郊外の高句麗の山城趾にピクニックに行った。
 このピクニックには運輸学校のコーチの先生のほかに、近くの体育クラブの専任指導員も、いっしょに参加した。
 こういう制度がチョソンの高校サッカーを強くするのに役立っているのではないだろうか。

文革後の中国のサッカー
 習志野サッカー・チームは、チョソンからの帰りに通った中国でも友好試合をした。3試合で習志野の2勝1引分け。チョソンにくらべると中国の高校サッカーはちょっとレベルが低い。
 中華人民共和国に日本のサッカー・チームが行ったのは、この習志野が3回目である。1957年に日本代表チームが遠征したときは、7試合して2勝1引分け4敗、1966年に横浜市の高校選抜チームが訪問したときには、上海での第1戦で11−0の大敗。あのころの日本のサッカーのレベルが低かったのはたしかだが、中国のレベルは当時の方が高かったといえるかも知れない。
 中国の高校サッカーの水準が、やや落ちているように思われるのは、プロレタリア文化大革命の影響だろうと思う。1965年から70年までの文革の間は、中国で本格的なスポーツ活動はほとんど停止していたようだし、学校も閉鎖されていたという。
 習志野チームが第1戦をした相手は北京体育学院予科のチームで、習志野が2−1で勝った。この北京体育学院は、文革の前には全国から優秀なスポーツ選手を集め、中国のスポーツと体育の中心になっていた学校だった。この体育学院も、文革の間は生徒募集を中止しており、現在、在学中の生徒は、昨年2月に募集を再開したときに入った生徒だけだそうだ。
 そのためか、選手たちは、いかにも子どもっぽい感じで、プレーぶりをみると明らかに試合経験の不足がみてとれる。
 しかし、このような現象は一時的なもので、中国の高校サッカーも、間もなく、日本の高校サッカーに追いつき、追い越すだろうと思う。少なくとも日本の高校サッカーが現状のままならば、すぐ追い越される。
 なぜかといえば、中国の高校サッカーの選手たちは、若くて試合経験が足りないだけで、ボール・コントロールの個人技においては、習志野の選手たちよりも、うまいからである。
 文革の間も、子どもたちは、ボールをけって遊んでいたに違いない。基礎があるんだから、体制がととのいさえすれば、すぐ強くなるだろう。
 北京体育学院予科には、中国全土から選ばれた選手が集まっている。中国でサッカーの盛んな地方は、上海、広州、武漢、吉林、瀋陽などで、習志野と対戦したチームの中では、武漢出身の選手と、吉林出身の朝鮮族の選手がうまかった。試合ぶりは、個人技を軸にした東南アジア風のスタイルのように思われたが、各地から素質のある選手を集めているのだから、訓練を積めば見違えるように強いチームになるだろう。
 北京での第2戦の相手は、北京体育業余学校チームで、習志野が優勢だったが1−1で引き分けた
 業余学校というのは、学校の課外に行く学校で、ちょうどチョソンの体育クラブのようなシステムである。
 北京体育業余学校のサッカー・チームには、北京市の優秀な高校サッカーの選手が集まっているわけで、レベル・アップには、きわめて有益な制度であることは、いうまでもない。
 上海で行なった最終戦は2−0で習志野の快勝。サッカーの盛んな上海のチームが、いちばん弱かったのは意外だった。
 相手は上海中学(高級中学、日本の高校)選抜で、選手の中に、わずか15歳の少年が2人いた。文革の影響を上海がもっとも受けているのかも知れない。
 中国で印象的だったのは、大観衆と友好第一の試合ぶりである。文革後の中国スポーツの路線である“友好第一”については、新聞などにも、かなり紹介されているので、ここでは省略するが、観衆の多いのには驚いた。
 第1戦の北京工人体育場は、10万人収容のスタジアムが満員で習志野チームの山口久太団長(体協理事)は「日本のスポーツ・チームが集めた観衆の新記録ではないだろうか」
 といっていた。
 こういう大観衆の前で“友好第一”のスポーツ交流を見せるのだから、大衆に与える影響は非常に大きいと思う。
 これはチョソンについてもいえることで、これからの日朝、日中のスポーツ交流に、サッカーは絶対に欠かせないと思う。

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