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サッカーマガジン 1967年2月号

アジア一の実力を示した日本

アジア大会総まくり  (1/4)  

 寒暖計を直射日光にさらすと、たちまち水銀柱は40度を越えたという。
 そんな酷暑の連続の中で、日本の選手たちは、実によくがんばってくれたものだ。10日間に7試合。ま冬の日本から飛び込んだ日本選手にとっては、非人道的な強行スケジュールだ。この悪条件をはね返した奮闘は、立派なものである。
 金メダルがとれなかったのは残念だけれどこれは不運である。銅メダルだって、これは価値ある銅メダルである。
 例によって、新聞社のデスクで、テレタイプから吐き出される電報に一喜一憂していると、同僚の記者がこういってくれた。
 「サッカーはたいへんだなあ。はるばるバンコクまで行って、さっと11秒くらい走って金メダルになる種目もあるのに、こう毎日毎日一時半を走りまくるんじゃあ、マラソンの金メダル三つ分ぐらいの価値があるな」
 その通り。サッカーのメダルこそ、男が精神と肉体のかぎりをつくして戦いとる、真に価値あるメダルだと思う。そして、それだからこそ、戦いのあとは敗れても悔なき、さわやかなスポーツなのだと思う。
 アジア大会の期間中に、もひとつうれしいことがあった。準決勝で日本がイランに惜敗した翌日、あるファンの方からかかってきた電話である。
 「残念でしたねえ、ほんとに残念でした。選手団が帰ってきたら、帰国歓迎パーティには、ぜひ出席させてもらいます。優勝できなかったんだから、せめて暖かく迎えたいもんです」
 うれしいことをいう人がいるもんじゃあないか。この電話をきいて、目がしらがじーんと熱くなった。こういう人が日本中にたくさんいるんだから、日本のサッカーは、もっともっと強く、盛んになるはずである。

×        ×        ×

 第5回アジア競技大会は、12月9日から20日まで、タイ国の首都、バンコクで開かれた。サッカー競技の参加国は11カ国。開会式だけの9日を除き、総計25試合が連日夕刻から夜(ナイター)にかけて行なわれた。
 陸上、水泳など、14の競技のうちで、サッカーが、いちばんの人気を集めたのは、もちろんだ。
 会期の前半には、国立競技場で昼間は陸上競技をやり、夜サッカーをした。陸上競技の観客は多いときで5000人、少ない日は午前中2、300人のときがあった。しかし夜になると、がらりとムードが変ったと外電は伝えている。夜のサッカーでは、定員3万人のスタンドが、はち切れんばかりにふくれあがったのだ。
 14日にマレーシア対日本、ビルマ対タイのダブル・ヘッダーが行なわれたときは、推定6万人が押しかけ、入り切れなかった群衆がひしめき合って、人なだれが起き、死者1名を出した。
 その翌日から警戒厳重になって、観衆の数もやや納まったようだけれど、閉会式直後に大会当局が発表したところでは、サッカーだけで80万人を動員したという。
  入場料金も、ほかの競技の最高が20パーツ(360円)なのに、サッカーはその2倍の40バーツ(720円)。どうやらサッカーは、大会のドル箱だったようである。
 地元のファンの間で、大会の前に優勝の呼び声が高かったのは、タイ、南ベトナム、ビルマだったという。ご多聞にもれず、ここでも賭けがしきりに行なわれたようすで、その賭け率によって、この3チームに人気が集まっているのが分るのである。
 タイは、自分たちの国だから身びいきが入るのは当然として、南ベトナムとビルマは、この夏のムルデカ大会1、2位の実績が買われているわけだ。
 しかし、専門家筋、つまり参加各国チームのコーチたちの間では、イラン、日本、ビルマ、それに前回優勝の肩書からインドが、恐れられていたようだ。
 だから、大会直前に組合わせが決まり、日本がインド、イランと同じ組に入ったとき、長沼監督も岡野コーチも、内心で「これはきつい」と思ったに違いない。とくに実力未知数のイランの試合ぶりを見る機会がないまま、2日目にぶつかるのは不利である。
 日本は、しょっぱなから、苦戦を覚悟しなければならなかった。 試合方法は、まず11チームを4、4、3と3グループに分けて総当りの1次リーグ、各グループの上位2チームずつ計6チームを2組に分けて、これも総当りの2次リーグ、その上位2チームずつが準決勝、決勝へと進むシステムである。
 この試合方法で、日本に負けたイランが日本を破ることになるのである。

 


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