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サッカーマガジン 1967年3月号

天皇杯全日本選手権 早大、若さの勝利

 優勝に涙を流して歌った校歌に“若さ”の象徴があった。その“若さ”は、さらに日本サッカーを発展に導く“若さ”でもある。

◇これが青春だ!
 夕暮れせまる駒沢競技場。早稲田のサッカー部員は、円陣を作って声を限りに「都の西北」を歌った。
 釜本がいる、森がいる、1年生のヒーロー田辺がいる、マネジャーがいる、補欠の選手たちもいる。部員全部がひとつになっていた。
 森主将の目から、熱い涙が、とめどもなくあふれ落ちた。選手たちだけではない。スタンドを見上げると、試合が終わっても立ち去りがたい観衆が、この光景を見守りながら、やはり目をうるませていた。
 日本リーグの王者、東洋工業を向こうにまわし、一歩も引かずに走り回ること延長戦の1時間50分。早稲田は、ついに天皇杯を社会人の手から奪い返したのだ。
 その感激の歌声が、スタンドにこだまして夕空に消えるのを聞きながら、テレビ番組の題名ではないけれど「これが青春だ!」と思わずには、いられなかった。森君、釜本君、大野君……。君たちは、生涯この日のことを忘れないだろう。精魂かたむけて戦いとった勝利の思い出は、これから社会に出て君たちが苦しい立場に立ったとき、君たちを勇気づけてくれるに違いない。
 4月から日本リーグに出場したら、やはりこの日のように、激しく、すばらしいサッカーを見せてほしい。そして1年後の全日本選手権のときには、社会人の立場から後輩の学生チームを相手に、全力をつくして天皇杯を奪い合ってほしい。
 それが、君たちの青春をいっそう豊かにし、日本のサッカーをますます発展させる道なのだから。

◇若さの爆発
 1月中旬の全日本サッカー選手権大会で、大学チームが優勝するだろうとは、ほとんど予想されていないことだった。前回、日本リーグと日本選手権の2冠を獲得し、2年前の日本リーグでは前年以上の強さをみせていた東洋工業 ―― その優勝は絶対のように思われた。
 もちろん、早大も学生チャンピオンである。かなり、やるだろうとはいわれたが、三菱重工、八幡製鉄、東洋工業と、日本リーグの上位チームを総なめにしようとは、想像できなかった。
 ぼくは、新聞につぎのような予想記事を書いた。
 「決勝は東洋工業と、八幡−早大の勝者で争われるだろう。東洋−早大になれば、社会人−学生のナンバー・ワン同士で興味はあるが、東洋の優位は動かない。東洋−八幡なら八幡には、宮本輝、上など個人的に東洋の選手を封じる手ゴマがあるから、秘術をつくした作戦で好勝負になるだろう」
 早大が決勝に出るところまでは考えたのだが、まさか、あのスキのない東洋工業に勝てようとは、思わなかった。
 予想は、がらりとはずれた。間違いのもとは、学生チームの若さを忘れていたことである。若さのもつ無限の可能性を、たくましい成長力を、計算しきれなかったことである。
 決勝戦の前半、東洋工業が先取点をあげ、早大が追いついた。東洋工業が再びリードし、早大がまた追いつく。
 延長戦に入るころになって、ぼくは、ようやく自分の間違いに気がついた。
 早稲田のチームは、秋の関東大学リーグのころとは、見違えるばかりに成長している。それどころか、決勝戦の試合をしながらも、ぐんぐん伸びているのである。
 それが若さなのだ。社会人よりも、スタミナがあり、走り回れるということだけではない。
 強い相手とせり合えば、せり合うほどわき出る新しい力、うまくなる技術 ―― その生命力だ。
 延長の前半5分、釜本からの縦パスを、細谷がつなぎ、田辺が決勝点。
 その瞬間、スタンドの大歓声とともに、早稲田の若さも、爆発したかのようだった。

◇若さと巧さ
 “老巧”という言葉が示すように、“若さ”と“巧さ”は、相反する要素だ。しかし、若さだけで技術がともなわなければ、サッカーはできない。いっぽう技術があっても、走りまわる若さがなければ、勝てない。
 46回をかぞえる全日本選手権の歴史をみてみると、全日本チャンピオンは、若さと巧さのバランスの上に生まれてきている。
 実業団チームがタイトルを取ったのは、昭和35年、第40回の古河電工が最初だが、それ以前でも、学生チームだけで優勝しているのは、かぞえるほどしかない。
 慶応BRBとか、中大クラブとか、関学クラブとか、いまでは、あまり聞かれない名前のチームが優勝している。これは、現役の学生選手とOBとの連合軍である。現役とOBとを混ぜることによって、若さと巧さのバランスをとっているのである。
 いまは選手の二重登録は許されていないが、当時は、一人の選手が、実業団チームのほかに、OBとして母校のクラブ・チームから出ることが認められていた。現在慶大のコーチをしている小林忠生さんなど、実業団には東京海上から出て、全日本には慶応BRBから出ていた。
 小林さんのお兄さんで、いま国際審判員の早川純生さんは、日本鋼管と東大LBから出ていた。ぼくが知っているころのプレーヤーとしての早川さんは、もう“老巧”の部類で、若い選手に「あっちへ行け」「こっちへ出せ」と指図して、自分は前線に浮かんでいた。シュートのタイミングをつかむのが実に巧かったように思う。
 話が横へそれたけど、要するに、当時の大学クラブ・チームは、若い選手を働かせて、OBが巧さを見せるようなところがあった。いまの標準からみれば、のんびりした、ある意味では楽しいサッカーだった。
 実業団チームで、早くから全日本選手権めざしてがんばっていたのは、東洋工業だけである。ほかの実業団は、主力選手が母校のクラブから出るので、全日本選手権ではチームを作れなかった。
 東洋工業は、昭和29年5月に甲府で開かれた第34回大会で決勝に進出、慶応BRBと2時間10分の死闘を演じている。1−1で延長に入り、1回目の延長で3−3となって、すさまじい争いとなり、4回目の延長でついに東洋が力つき3−5で敗れた。
 ついで登場したのが八幡製鉄で、31年大宮の第36回のとき、まったく無名の存在から決勝に出て慶応BRBに2−4で敗れた。いまも日本リーグで活躍している渡辺選手、佐伯選手が、高校出の若手としてさっそうとデビュー、寺西監督がFWの中心として第一線に立っていた。
 続く第37回(広島)は中大ク−東洋、第38回(藤枝)が関東ク−八幡と、2年続けて実業団が大学のクラブに決勝で敗れたが、1年おいて第40回(大阪)で古河電工が、慶応BRBを破って実業団として初の天皇杯を握った。大学クラブ・チームの時代はこの年が最後で、以後の6回は現在のような実業団の巧さと学生の若さの争いが続いている。

◇早大優勝の真因
 表彰式のあと、天皇杯を掲げた森主将を肩車して、早稲田のイレブンは駒沢競技場を1周した。ワールド・カップで優勝したイングランドと同じやり方だ。
 グラウンドで、それを見ていたら、東京サッカー友の会の委員に肩をたたかれた。
 「いい試合だったですね。だけど日本リーグが負けたのは、まずいんじゃないですか」
 「どうして?」
 「いまのサッカー・ブームは日本リーグが作ったもんでしょう。その日本リーグ勢が学生にやられたんじゃあ、人気に水をかけられるのが心配だな」
 ―― 分った。プロ野球が六大学野球に負けるようでは話にならない。それと同じような心配をしているわけだ。
 ぼくは答えた。
 「学生と日本リーグが、せり合ったほうが、かえって人気が出るんじゃないでしょうかね。この寒いのに大観衆がつめかけたのも、早稲田と東洋工業の対戦が、珍しいからですよ」
 準決勝で、八幡製鉄が早大に負けたあと、八幡の寺西監督は、負け惜しみでなく、こういっていた。
 「早稲田と東洋の決勝もおもしろいじゃないか。東洋−八幡ばかりやってるよりはいいよ。手のうちを知りすぎていて新鮮味がないもの」
 来年、釜本はヤンマーに、森は三菱に入る。当然のことだが、大学のスターは、つぎつぎに去る。
 しかし、一方で高校選抜の大部分は、大学に入るのだ。練習時間にも、大学のほうが恵まれているのだ。
 大学で若い選手がどんどん育ち、日本リーグと並んで、大学リーグが強くならなければ、日本のサッカーの発展は望めないのではないか。
 早大の安田コーチは、こういっていた。
 「1年生の田辺や野田がね。釜本と森がアジア大会にいって、あとを埋めなくてはならなくなって、がぜんやる気を起こした」
 「釜本が中盤に下って、1年生を走らせたでしょう。あの作戦は、コーチ陣がとくに指示したわけじゃない。森を中心にして4年生が考えたんです。若手が伸びてきたから釜本が安心して下がることができたんだし、釜本自身も成長したんですよ」
 早大は、なぜ伸びたのだろうか。
 ひとつには、若手に試合のチャンスが与えられたこと。関東大学リーグ優勝決定戦で、森と釜本を抜いて中大と戦ったのが、よい経験になったに違いない。
 第二に、釜本と森が、アジア大会でみがきをかけたこと、第三に大学選手権で強い相手と争う経験をしたことだ。
 逆に日本リーグ勢のほうは、11月中旬から約2カ月間も試合から遠ざかっていた。アジア大会遠征組も、若い選手ほど早く疲労を回復することができなかった。また、これは想像だが、社会人は、お正月を、学生選手ほどサッカー一本にしぼって過ごすことは、できなかったに違いない。
 以上のことから導かれる教訓は、次の疑問につながる。
 「大学には、強い相手との試合のチャンスが、少なすぎるのではないだろうか。若い選手を伸ばすために、もっともっと機会を与えなければ、いけないのではないか」
 「日本リーグのチームも、会社勤めの関係はあるだろうけど、もっと試合数がふえているのではないだろうか」
 大学と実業団が対決している過去6回の全日本選手権で、実業団が3回、大学チームが3回優勝している。3−3のタイ・スコアである。まだまだ、大学の時代が去ったとは、いえないのだ。
 昭和37年の第42回大会(京都)で中大が優勝し、大学の単独チームとしては戦後はじめて日本一になるとともに、天皇杯を3年ぶりに実業団から奪いとった。
 このときのメンバーは、小城、岡光、桑原――いまの東洋工業の主力である。
 38年の第43回(神戸)で早大が優勝したときのメンバーは、釜本、森のほか、桑田、松本、二村。これもいまの東洋工業の主力だ。
 強い選手をつぎからつぎへと送り出し、そのあとから若い力を新しく育てていく大学のサッカーの生きかた。
 日本リーグと大学リーグの争いが、ますます日本のサッカーを盛んにすることを、祈らずにいられない。


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