後藤
本日は暑い中お集まりいただきまして、ありがとうございました。今日、若い方が大勢集まったならパネリストの紹介をしっかりしなくては、と思っていたのですが、どうやらその必要はなさそうです(笑)。本にも書いていないようなお話をお聞かせいただければと思っています。では早速始めたいと思います。
― クラマーの第1印象 ―
後藤 中条さんは僕にサッカージャーナリストになるきっかけを作ってくれた方です。スペインW杯を見ていたら突然電話がかかって来て「後藤、お前何か原稿書かないかと」言われ、書いた原稿がギャラを初めてもらったものでした。まず、導入として、クラマーさんに最初にお会いした時の印象をお聞かせ下さい。
中条 クラマーさんを表現するのは「本当に素晴らしい方」と言う言葉しかないですね。私はクラマーさんに出会ってサッカーの事に関係して生きて行こうという覚悟を決めさせられました。私の一生涯を支配した方です。魅力的な方でクラマーさんの影響で日本サッカー界の今日があるといって良いと思っています。
後藤 次に岡野さんの紹介ですが、岡野さんといえば「ダイヤモンドサッカー」の解説者で、僕等にサッカーを教えてくれた人です。岡野さんはクラマーさんの第一印象はいかがでしたか?
岡野 人と人との出会いは運命を変えるものですが。私の運命を変えた人がクラマーさんと言っても良いと思います。私は小学生の時は水泳の選手で、戦前、神宮で開催された水泳大会に参加したこともありましたが、たまたま中学でサッカーに出会い、サッカーでは国際審判の筆頭候補になり、審判になる方向に進んでいたわけですが、クラマーさんの来日で「サッカーとは何か」ということを教わり、東京オリンピックのコーチになり、それ以降、審判からコーチ業をやることになりましたので、クラマーさんと出会っていなければ今日はなかったと思います。初来日の時、アシスタントコーチとして空港まで迎えに行って、予約した山の上ホテルまで送ったら、「これからお前が毎日迎えに来るのか」と言うので「そうだ」と答えたら「迎えの時間は毎日5分だけ待ってやるが、5分以上遅れるな」と言われ、ずいぶん厳しい人だなー、と思いましたね。
後藤 最後に杉山さんです、かつては杉山さんのプレーを見るために左のタッチライン(側の席)から埋まると言われましたね。杉山さんのクラマーさんの第一印象をお聞かせ下さい。
杉山 高校2年から3年にかかる時に代表候補になりまして、神奈川県藤沢で初めてクラマーさんとお会いしました。私はアジアユース選手権に3回出場しているのですが、3回目(1961年タイ開催)の時のユースの監督が岡野さんでした。代表選手とコーチ、監督という付き合いでは岡野さんと私が一番長いのではないかと思います。岡野さんは理論派という印象がありますが、クラマーさんはとにかく精悍な鋭い目が怖かったです。初めて代表の合宿でサッカーの奥深さ、本当のサッカーを教わったという気がしています。
後藤 その後クラマーさんの印象は変わっていきましたか? それとも最初の精悍な鋭いと印象のままでしたか?
杉山 我々の時代の選手は「日本サッカーの育ての親」だと思っているのではないでしょうか? もし出会わなかったら今日の自分はたぶんなかったと思います。私を左利きと勘違いする人がいるのですが、検見川での合宿でのシゴキ、特訓のおかげで、そう人々に勘違いをさせるくらいになりましたから。
後藤 クラマーさんについては一番最初にとても良い方が来日してくれたんだな、という印象を持ちます。これが最初に来てくれた人が良い人ではなかったら日本のサッカーは変わっていたのではないかなと思います。来日のいきさつについて教えて下さい。
中条 1960年に初めて出会いました。その頃日本のサッカーはローマ五輪予選で韓国にも負けて、本当にどん底で、橋にも棒にもかからないくらい真っ暗でした。それまでは竹腰氏中心でしたが成果があがらないので、何とかしなくてはという感じでした。ただ、当時どの競技でも外国人に教わるという発想が日本にはありませんでした。土壇場に追い込まれた格好で野津さんがW杯スイス大会の西ドイツ監督だったゼップ・ヘルベルガーに手紙を書いてヘルベルガーからクラマーさんに白羽の矢が当たり、日本に行けと言う命令が来ました。
クラマーさんの来日は野津さんがたまたまドイツびいきだったということからでした。やはりクラマーさんでなければ、このような成果はなかったと思います。クラマーさんは厳しくも温かい人でしたから、来日後は選手たちがクラマーさんを愛し、東京オリンピックを経てメキシコの銅メダルへと繋がりました。
1960年に新聞記者としてクラマーさんに同行しました。当時クラマーさんがおっしゃった「サッカーは子供を大人にし、大人を紳士にする」と言う言葉は、当時の日本サッカーではとても考えられない言葉でしたので、印象深くびっくりしてドイツサッカーの歴史の深さ、サッカーと言うものの深さを感じましたし、デュイスブルクのスポルトシューレの8面の芝生のフィールドには度肝をぬかれ、今思えば別世界でした。今は日本が強くなってこのような施設があるのは嬉しい限りですね。実は本にはまだまだ書き足りないことがたくさんあって、また取材をして、あと1、2冊書かないと死に切れないと思っているのです。
クラマーさん自身は自らの来日についてはヘルベルガーとDr.野津が仕組んだことだとおっしゃっていました。メキシコで銅メダルを取った時には、ドイツはオリンピックのサッカーでメダルを取っていなかったのでヘルベルガーがクラマーさんに「おー!ドイツの初めてのメダルだ!」との電報を打って、それを選手に見せたそうです。
― クラマー来日までの話 ―
中条
クラマーさんは16歳の時に西ドイツ代表候補になり、ヘルベルガーと出会います。それまでは医者志望でしたが、ヘルベルガーと出会ってサッカーで生きたいと思ったそうです。戦時中の20歳の時には1000人を率いた落下傘部隊の隊長でしたので指導力を見込んでくれたのだろうとクラマーさんはおっしゃっていました。終戦後急死に一生を得て帰国後、ゼップからケルンのスポーツ大学のサッカーコースを受けたらどうだと言われたのですが、当時は職もなく貧乏でケルンまでの運賃が出せず受けることが出来ませんでしたが、ゼップの配慮で1年のうちに特別に試験を受けさせてもらってコーチ資格を取り、デュイスブルクのスポルトシューレの主任コーチに24歳の時に就任して14年間勤めます。その間の1960年に日本代表がドイツに行き、日本代表コーチに就く事になりました。
クラマーさんはドイツ代表監督やコーチ候補だったのに、ヘルベルガーに言われて日本ごときに行かされたのですが。私も新聞記者の端くれとして来日時の心情を何度もしつこく、しつこく質問するのですが、その度にクラマーさんは「私は日本が好きだったから喜んで行った!」と言い張りますが、3回のインタビュー毎に返事のニュアンスが違うので、来日にはかなりの不安を感じていたようですし、クラマーさんにとっても、人生の一大転機だったろうなという感想です。でも、本当によくぞ日本に来て下さったと思います。
来日されて全国を回ったサッカー教室なんかでも小、中、高校生誰に教えても一生懸命で、素晴らしい模範プレーをやって見せてくれました。
後藤 そうなると、日本サッカーにとってはヘルベルガーも恩人ですね。
中条 1963年にヘルベルガーが代表監督を辞めて次にヘルムート・シェーンが監督に就任するのですが、実はクラマーさんも次期監督候補でした。本当は、クラマーさんは代表監督になりたかったのでないかと思っています。ヘルベルガーが代表監督の時にクラマーさんにアシスタントの打診があったのですが、都合がつかず、シェーンがアシスタントになりました。そして次の監督がシェーンでしたから、ヘルベルガーの時にアシスタントに就いていれば、監督に就けたかもしれなかったですね。結局シェーンの時にクラマーさんはアシスタントに就きます。 1966年イングランドW杯の時の対イングランド戦の死闘では皮肉な事に、クラマーさんが育てたベッケンバウアーが大活躍したおかげでかろうじて2−1で勝ってシェーンの首が繋がりました、もしその試合で負けていればクラマーさんが監督になったかもしれませんでしたね。 |