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サッカーマガジン 1972年7月号

習志野サッカー チョソンを行く
日朝の友好的スポーツ交流の幕を開いた
習志野サッカー               (2/2)    

■サッカーは交流の王様
 こんどの旅は、サッカーの試合をすることだけが目的ではない。日本から初めて、スポーツの代表団を送り込むことによって、両国の交流拡大への突破口を開き、おたがいの友好と理解を深くすることが、本当の目的である。
 チームとともにチョソンを訪問し、キム・イルソン首相と会見した日本テレビの小林与三次(よそじ)社長は、チョソンヘ来てからも、しばしば「交流を拡大して、おたがいの国の実情を、十分に知るようにすれば、おたがいの不信感もなくなるのではないか。
 日本は、これまで南とは深くつき合ってきたが、北とはほとんどつき合いがなかった。しかし、日本と北との交流が拡大し、実情を知るようになれば、それを通じて北と南の間に横たわる不信の念もうすらぎ、統一への道が開けるのではないか」と述べていた。
 ぼくも、まったく、その通りだと思う。チョソンの南北統一は、チョソン民族自身の問題であって外国人であるぼくたちが、軽々しく口を出すべきでなく、まして統一を妨げるような動きをすべきではない ―― とぼくは考えているが、習志野サッカーの訪問を突破口とする交流の拡大が、日本とチョソン民主々義人民共和国との間の理解を深めるだけでなく、チョソン民族のすべての人たちの願望にそって、北と南の相互理解に間接的にでも役立てば、うれしいことである。
 とはいっても、習志野サッカーの若い選手たちが、そんなに、だいそれたことを考えながら、チョソンを旅行したわけではない。20歳未満ばかりの選手たちはチョソンで実にのびのびとふるまった。
 試合と練習の間には、毎日、午前とタ方に分けて、びっしりと見学スケジュールが組まれている。キム・イルソン首相のお父さんが、1920年代に、当時チョソンを植民地にしていた日本に反抗して、ひそかに革命運動を始めたポンファリ(蜂火里)というところへ行ったのが、見学の初めだった。こういう、キム・イルソン首相にまつわる場所は、記念館や記念碑をたて、自然公園のようにして、美しく整備されている。
 キム・イルソン首相の生地、マンギョンデ(萬景台)も、デドンガン(大同江)をのぞむ美しいところである。こういう所へ案内され、チョソンの人たちの抗日闘争革命運動の歴史をきかされても、習志野の選手たちは、それほどピンとはこないようだった。
 無理もない。もっとも年長の選手の工藤良一君(富士通)が、1953年4月3日生まれ。第2次世界大戦が終ってから8年後である。いまなお“停戦”状態のまま凍結されている朝鮮戦争も、生まれる前の出来事である。
 選手たちにとっては、チョソンは、最初から、ちゃんと独立している一つの外国であり、日本が、この古い歴史をもつ民族の上に残した恥ずべきツメあとのことは、話をきかされても「そんなことがあったのか」といった程度にしか感じられないのである。
 「それでいいんですよ。選手たちは、へんな先入観を持っていないんだから ――」
 主務という肩書きで同行した市川恭一郎先生(習志野高サッカー部長)が、こういった。市川先生は、歴史の先生である。
 ピョンヤン市の中央に、少年宮殿という壮麗な建物がある。市内の少年少女たちが、学校の課外にやってきて、スポーツをしたり、理科の実験をしたり、音楽やダンスのクラブ活動をする。習志野の選手たちは、この宮殿に案内され、首に赤いネッカチーフをまいてもらって“1日少年団員”になり、卓球クラブでは、小学生くらいの子どもたちと打ち合って、さんざんに打ち負かされた。
 ウォンサンでは、海岸の美しい松林にある少年野営所に案内された。ここは、全国の子どもたちが、クラス単位で入れかわり立ちかわりやってきて、海水浴やキャンプをするための設備である。ここでも選手たちは、首にネッカチーフを巻かれ、輪になって、子どもたちとダンスをした。
 戦争を知らない、ジュニアの選手たちは、こうして、自分の目でチョソンの美しい山河を見、自分の耳で、たくましい建設のツチ音を聞き、無邪気な子どもたちと、のびのびとつき合った。この若者たちはこの国を再び戦争にまき込もうなどとは、とても考えないだろうと思う。
 そのうえで、歴史的な事実を、客観的に勉強したほうが、ずっといい―― というのが、市川先生の考え方のようだった。
 そういうわけだから、交流は、ますます広く、ますます深く拡げていったほうがいいのだが、「やはり、最初の突破口が、他のスポーツでなく、サッカーだったのはよかったですね」と、ぼくだけでなく、チョソンの人も考えているようだった。
 「この国では、サッカーはスポーツの王様ですから――」と、体育指導委員会のキム・トクジュン副委員長がいった。
 「サッカー選手は、いちばんの人気者ですよ。試合となれば、職場で討論会を開いて、その日の午後の仕事は、他の休日にふりかえてでも見にいこうと、決議するほどです」と、チームにつきっきりで世話をしてくれたリー・ドンギュ(李東奎)同志がいった。リーさんは、東京教育大学で名フォワードとして活躍し、1961年に帰国した人である。
 だから、今度は、どうしても、チョソン民主々義人民共和国のサッカー・チームを、日本に招かなくちゃいけない――と、ぼくだけでなく、習志野・習友訪朝団の全員が考えた。
 サッカーは、スポーツの王様であり、大衆のものであり、したがって将来とも、日朝の友好的交流の王様になるに違いないのだから――。

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