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サッカーマガジン 1972年7月号

習志野サッカー チョソンを行く
日朝の友好的スポーツ交流の幕を開いた
習志野サッカー               (1/2)    

■近くて遠い国
 1月の全国高校サッカー選手権大会で優勝した千葉県の市立習志野高チームのメンバーが、5月にチョソン(朝鮮)民主々義人民共和国を訪問した。
 メンバーの大半は3月に卒業しているから、正確には、高校チームではない。選手15人のうち、社会人4人、大学生5人、残り6人が習志野高校の3年生である。
 習志野高校の同窓会を、習友会というのだそうで、一行の名称も「習志野習友訪朝団」となっている。習志野高の前校長で、日本体育協会理事、千葉県体育協会々長の山口久太氏が団長である。
 もちろん、サッカーを通じての友好親善が主だけれども、それだけが目的ではない。チョソンは、海ひとつへだてた隣国だのに、あまりにも、日本に知られていない国だ。だから17〜19歳の若い目でなんでも見てこよう、勉強してこよう、というのがねらいだった。
 なにしろ、朝鮮半島の北部は、日本のスポーツ・チームが訪問するのは、初めてのことである。20歳以下の少年たちが、こぞって行ったのも、初めてのことである。
 ぼくは、テレビ関係の報道関係者といっしょに、新聞記者としてチームに同行して、この国を取材することができたが、日本のスポーツ記者が、チョソン民主々義人民共和国を直接取材したのも、初めてのことである。
 われわれ報道関係者をふくめて総勢23人。こんなに大勢の代表団が訪問するのも、初めてのことだった。
 というわけで、この訪朝団は、“初めて”ずくめだった。5月7日(日)の昼に、ソビエト航空機で羽田を出発。この日の空港は、在日朝鮮人をはじめ、関係の人びとの見送りで、身うごきできないほどの大混雑だった。
 一部の新聞には、習志野サッカーのチョソン訪問に反対する人が多いように報道されていたけれど、これは、まったくのウソである。実に多くの人たちが、日本とチョソンとの間で、スポーツ交流がはじまるのを歓迎している。表向き、しぶい顔をしてみせた人たちだって、心の底では、“こういう時代が来たのだ”ということを認識しはじめているのだ。
 その証拠に、出発の2日前に、高校チームの有力な指導者の先生たちが集まって、習志野高監督の西堂先生を励ますための会を開いたということである。
 しかし、飛行機に乗ってから、やはり、まだまだ、日本と朝鮮は近いようでも遠い国だということに気がついた。
 東京からモスクワヘジュット機で11時間、モスクワで1泊して、こんどはターボ・プロップ機でピョンヤン(平壌)まで東へ逆もどり。これが13時間50分。モスクワ滞在をふくめると、総計、東京−ピョンヤンに46時間30分かかった。
 モスクワに寄るのは、ここの朝鮮大使館で、入国査証(ビザ)をもらうためである。日本とチョソンの間に正式の国のつき合いがあれば、こんな遠まわりをする必要はない。ジェット機で、まっすぐ飛べば、せいぜい2〜3時間である。初めて飛行機に乗って海外旅行をした選手たちは、ピョンヤンにたどりついたときは、さすがに、げんなりしていた。

■手ごわいチュチェのサッカー
 チョソンには、9日に着いて26日まで17日の滞在だった。朝鮮のことを、この国では、チョソンと発音する。しかも、この国では、漢字を廃止してしまって、表音文字だけになっているから、日本文字で書くときも、“チョソン”と書くのが、もっとも適切なようである。
 17日間の滞在中に、習志野サッカー・チームは3試合をして、3戦全敗。通算13点をとられて、1点も奪えなかった。「チョソンの高校サッカーは手ごわい」というのが、訪朝団全部の感想である。
 第1戦は14日(日)。チョソンでもっとも大きいピョンヤンのモランボン(牡丹峰)競技場。7万人入るというスタジアムだが、この日はゴール裏を除いて、ほぼ満員だった。
 相手は昨年の高校選手権1位のピョンヤン高等建設技術学校チーム。グラウンドに相手チームが出てきたとき、西堂監督が「わあー、体がでかいなあ」と驚嘆する。日本の高校では大柄な習志野の選手より、さらに上背があるし、胸板が厚い。「チョソンでは、背を高くするための特別なトレーニングがあります」と体育指導委員会の関係者の話。
 試合は6−0 (前半4−O)の完敗だった。習志野には、まったくいいところなし。前半に前田のポストに当たったシュート、後半に日暮のキーパーと1対1になった独走ドリブルと、2回のチャンスがあっただけである。
 出足で負けて、ほとんどのボールを前でとられていたこと、動きながらのボール・コントロール(トラッピングまたはストッピング)の技術に格段の差があったこと、相手のゾーン・ディフェンスを破れなかったこと、相手のシュート力のすごさ、など、いろいろな点で習志野が劣っていた。特に相手はチョソンでも、きわだって走力のいいチームだったから、力の差は歴然と現われた。
 第2戦は、東海岸の町、ウォンサン(元山)。寝台車にゆられて8時間の旅である。18日(木)午後4時キックオフ。ウィーク・デーだから、お客の入りが悪いかと思ったら競技場が、はち切れんばかりの超満員。グラウンド内にも降ろして、陸上のトラックのきわまで、すわらせている。しかし騒ぎや混乱がまったくないのは、お国柄である。
 相手は昨年の高校2位だというチョウ・グンシル高等機械工業学校。チョウ・グンシルというのは、1950年ごろ、この学校の名ウイングとして、人気のあった選手の名前だそうだ。
 朝鮮戦争のとき、902.4高地という山の戦闘で、両腕をやられながら、歯で重機関銃の引きがねをひいて奮戦し、壮烈な戦死をした。その功によって「英堆」の称号を与えられ、出身校に、その名がつけられた。ウォンサンのサッカーマンの誇りであるらしい。
 試合は、またも5−0(前半3−0)の完敗。習志野は、第1戦よりは、だいぶよくなっていたが、力の差はどうしようもない。戦術的には、第1戦の相手よりも、むしろうまみがあり、個人的には左ウイングが、ドリブルしながらの抜き打ち中距離シュートで、2点をあげた。エースをうまく生かして攻めてくる。
 第3戦はまたピョンヤンに戻って21日(日)。下町のトンピョンヤン(東平壌)競技場。この日も超満員である。実はチョソンの側は、24日にもう1試合やりたかったのだが、習志野チームのほうが辞退して、これが最終戦になった。
 相手は昨年高校3位だというピョンヤン高等運輸技術学校。前半0−0で持ちこたえたが、後半2点をとられて、ついに3試合連続完封負けを喫した。
 このチームは、習志野の選手たちより、体格はやや小柄だが、テクニシャンぞろいである。特に両ウイングの10番と11番(ともに168センチ)がうまく、ボールをキープされたら、習志野のバックは、いいように、ほんろうされて、文字通り手も足も出なかった。
 第1戦の相手は走力、第2戦の相手は戦術的うまさ、第3戦の相手はテクニックの点で、特にすぐれていた。しかし、技術、体力、走力とも、チョソンの高校のほうがひとまわり上である。チョソンの高等技術学校は、4年制まであるので、第1戦、第2戦の相手は、20歳の選手をふくんでいたが、習志野のほうも、OBを含んでいるのだから、年齢的には大きな差はない。
 「どうも、チュチェのサッカーに歯がたたなかったな」と、これは指導陣の率直な反省である。
 チョソンでは、キム・イルソン(金日成)首相のチュチェ(主体)思想が、あらゆることの基礎になっている。最終戦当日のお昼に、ぼくはキム・イルソン首相との会見に、同席したが、そのとき首相は「チュチェとは、自分が主人になって、自分の頭で考え、自分の力でものを成しとげることだ」といっておられた。チョソンでは、チョソンの人民にあったサッカーを、自分でくふうして生み出し、自分のチームに合ったサッカーを自分たちで編み出している。


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