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サッカーマガジン 1966年10月号

ワールド・カップ1966総決算(2)  (2/4)    

番狂わせの北朝鮮
 準々決勝では、北朝鮮の試合ぶりも、いつまでも忘れられないものだった。
 北朝鮮は、ヨーロッパのサッカー界にとっては、まったく「知られざる国」だった。一時は優勝への賭け率が1000対1だったことがあるくらい低く評価されていた。
 その北朝鮮が準々決勝へ出て来たことだけでも、一大センセーションだったのに、この日は、優勝候補のポルトガルから、立ち上がりに、いきなり3点のリードを奪ったのである。
 北朝鮮は、試合開始後1分に朴承進が早くも1点を奪い、続いて22分季東運、24分揚成国とたて続けに得点、3−0と差を開いた。北朝鮮の動きは爆発的で、ポルトガルの守備の意表を、正確にすばやくついた。守備はポルトガルの攻め手をよく見破り、しばしばオフ・サイド・トラップを成功させていた。
 地元リバプールの4万2000以上の観衆は、熱狂して遠来のチームを声援し、地上最大の番狂わせがここに起こるかと思われた。
  ポルトガルは、奇跡的にこの3点をはね返して逆転勝ちを演じたのだが、この奇跡を生んだのは、天才児オイセビオだった。
 オイセビオは、この日ポルトガルの5点のうち4点をあげて、名声を動かしがたいものにした。
 オイセビオは27分北朝鮮の守備2人を足わざでかわして、ゴール上すみに、むつかしい角度のシュートを決め、43分PKで1点差に追い上げた。
 後半にはオイセビオが11分に3点目、14分PKで4点目、35分にオウグウストが5点目。北朝鮮は全力をつくして守っていたが、オイセビオ個人の天才だけは防ぎ切れなかった。試合が終わったとき、観衆の激励と賞賛を浴びながら、北朝鮮の選手たちは首をうなだれて力を失っていた。
 北朝鮮は、これで姿を消すことになったが、北朝鮮の活躍が世界のサッカー地図を塗り変えたことは確かである。
 批評家の中には「4年後のワールド・カップでは、アジアがヨーロッパや南米と対抗する勢力になるだろう」と、先走った予想をする者さえいる。

ソ連―ハンガリーは、典型的な東欧同士の好試合だった。
 ソ連が2点のリードを守り切ることができたのは、37才の老練ゴール・キーパー、ヤシンのおかげである。かれは美技につぐ美技で、ハンガリーの反撃を58分ベネの1点に押さえた。ハンガリーは優勢で、常に冷静かつ果敢に攻めていた。相手がヤシンでなければ少なくとも同点、おそらくは勝ち越し点をあげていただろう。

西ドイツ―ウルグァイの試合では後半4分までにウルグァイに2人の退場者が出た。11人対9人となっては試合はまったく一方的だった。
 主審はイギリスのジェームズ・フィネーである。南米勢はこれでワールド・カップから全部姿を消した。

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