ワールド・カップ物語 (2/3)
(スポーツマガジン1966年3月号)
■ ワールド・カップの歴史
ワールド・カップの第1回は、南米ウルグァイのモンテビデオで開かれた。ウルグァイが選ばれたのは、その前のオリンピック、つまり1924年パリ大会と、1928年アムステルダム大会のサッカーで、ウルグァイが連続優勝した実績に報いたものである。
そして、この第1回ワールド・カップも地元ウルグァイが勝ち、南米のサッカーの実力を示した。
第2回大会は1934年にイタリアで行なわれ、これも地元イタリアが優勝。第3回大会は1938年フランスで開かれ、イタリアが連続優勝。その後第二次世界大戦のため中断する。
戦後、1950年に再開されたのが、ブラジルの悲劇を生んだ大会である。
そのつぎの第5回大会は、1954年スイスで開かれた。
この大会で忘れられないのは、ブラジル−ハンガリーの乱闘事件と、第二次世界大戦の敗北から立ち直ったドイツの奇跡的優勝である。
乱闘事件は試合のあとにおこったのだが、準々決勝のブラジル−ハンガリーの試合そのものも、乱暴で激しいものだった。観衆が興奮してグランドに降り、審判はブラジルの選手2人、ハンガリーの選手1人を退場させた。
ハンガリーが4−2で勝って更衣室に引きあげてくると、ブラジルの選手たちが、スパイクやビンを持って待ち受けて、なぐりかかり乱闘になった。警官隊が出て取り静めたが、国際サッカー連盟は、両国の協会に警告を出している。
話は横にそれるけれど、南米やイタリア、スペインなどラテン系の国民は血のけが多い。これらの国では、サッカー試合についての乱闘事件やピストル事件が、年に2つや3つは外電にのって伝えられてくる。
審判が相手チームにひいきしているといって、ピストルで観衆にねらわれた、というような話が多い。
実際に射殺された例もあるし、逆に審判がピストルをかくし持っていて、威嚇射撃をしてかえって騒ぎになったこともある。
そこで、スペインあたりでは、サッカー場の入口で、警官がピストルを持っていないかどうか見張っている。違反者を見つければ、こんご1年間のサッカー観戦を禁止されるという罰もある。
第5回大会に優勝したドイツは、ダークホースだった。決勝で対戦したハンガリーは、2年前のヘルシンキ・オリンピックで優勝、そのあとイギリスに遠征し、ロンドンのウェンブレー競技場で、地元イングランド代表チームを破り、当時無敵のチームだった。
サッカーの母国として伝統を誇るイングランドが、本国での試合に敗れたのは、このときがはじめてで、前回の大会で無名のアメリカに敗れたのに次ぎ、イギリス人に大きなショックを与えたものだった。それだけに、ハンガリーの強さは、世界中に深く印象づけられていた。
ドイツは、この強敵を相手に、冷静に、技術と戦術の限りをつくし、すばらしい闘志を発揮して、3−2で逆転勝ちした。
ドイツの国民にとって、この勝利は、日本人が戦後の窮乏の中で、”フジヤマの飛び魚”古橋広之進選手の生んだ水泳の世界記録に、明るさと希望を見出したのに似ていた。
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ブラジル2連勝の花形ペレ
最近の2回、1958年の第6回と、1962年の第7回は、ブラジルのための大会になった。
ブラジルはついに宿願をはたし、2回続けて王位を保った。
ブラジルは勝っただけでなく、サッカーのために新しい世界を開いた。
戦術の面でいえば、現在世界サッカーの一流チームがほとんど採用している4・2・4の布陣は、第6回大会に優勝したブラジル・チームが完成したものだといっていい。
技巧的な足わざ、アクロバットのようなプレーが売りものだった南米風の個人技を洗練させ、完全無欠な足わざを、糸であやつるような4・2・4のチーム・ワークのなかにとけこませたのである。
ブラジルの花形は、この大会でデビューした当時17歳のペレだった。
ペレは当時トレードマネーとして7千万円の呼び値がついたが、今では「7億円の価値がある」と書かれている。
しかし、彼はブラジルの人間国宝であり、外国のチームに売り渡すことは国民が許さない。
表向きの給料は、ブラジル大統領と同額だが、実際には、大きなビルをいくつも経営する億万長者であるという。
ブラジルは次の第7回大会にも、ほとんど同じ顔ぶれで出場して連続優勝した。
国民の狂喜は想像のほかだった。
試合の模様を収めたフィルムは、片っぱしから空輸してテレビ放送された。
バスや電車の運転手も携帯ラジオをそばに置き、得点のたびに警笛を鳴らした。
ブラジルの優勝が決まった瞬間、バスや電車は動けなくなった。
狂喜した民衆が飛び出して、町を埋めつくしたからである。
群衆の祝賀の行列が夜になっても続き、花火の光と音が消えるときがなかった。
大統領は、チームの帰る日を国の休日にすると宣言し、選手たちに1台ずつキャデラックを贈ると約束した。
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