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ワールド・カップ物語  (1/3)
(スポーツマガジン1966年3月号) 


 ブラジルのリオ・デ・ジャネイロは、美しい都である。白亜のビル街に続いて、すぐコパカバーナの砂浜が、明るい太陽に輝き、青い海が広がっている。
  この砂浜で、観光客はビキニの美女たちといっしょに、はだしでボールをけって遊ぶ子供たちの群を見る。ここはサッカーの国である。
  コパカバーナでは、また砂の芸術が有名だ。
  砂浜のあちらこちらに、砂で築いた作品が、お客の投げる小銭を待っている。
  いちばん多くの投げ銭を集めている傑作は、決まって、リオのマラカナ・スタジアムの模型である。
  「これはなに---?」
  「サッカー場さ。世界でいちばん、大きいんだ」
  子どもの顔は、大得意だ。


ブラジルのサッカー熱

  マラカナ・スタジアムは、世界最大の競技場である。観客収容数は17万、一説には20万ともいう。このスタンドが超満員になったとき、ある新聞は「観衆25万」と書いた。 
  東京オリンピックの開会式が行われた日本最大の国立競技場は収容能力7万人余。これにくらべれば、マラカナ・スタジアムがいかに大きいか分るだろう。県庁所在地の青森市の人口が、おばあさんから赤ん坊まで、すっぽり入る。
  空中からとった写真を見ると、二階建ての観客席は、ほとんどフィールドの上まで、八方からおおいかぶさり、その底の芝生に、太陽の光が円形に落ちている。
  かつて、このスタンドを埋めた観衆のどよめきは、ブラジル全土をゆるがし、このフィールドでの敗戦は、ブラジル全国民を悲しみの底に突き落としたのである。
  マラカナ競技場は、1950年の第4回世界選手権大会のときにサッカー専用競技場として作られた。この大会は番狂わせの連続で、サッカーの世界では後進国のアメリカが、本家のイングランドを破り、また前2回の優勝国イタリアが、スウェーデンに敗れた。
  しかし、この大会が歴史に残した話題は、この大番狂わせではなくて、ウルグァイ対地元ブラジルの試合だった。
  新聞に「観衆25万」と表現されたのもこの試合である。
  ブラジルは決勝リーグに入ってから、スウェーデンを7−1、スペインを6−1で破って圧倒的な強さを見せていた。一方ウルグァイは、スペインと2−2で引き分けスウェーデンには3−2の辛勝だった。
  優勝をかけたブラジル−ウルグァイの試合で、ブラジルの全国民が、勝利を疑わなかったのは、このスコアからみて当然だろう。勝利のサンバがレコードに吹きこんで用意され、祝勝会のためのシャンパン2万本が競技場に運びこまれていた。国民は、勝利の瞬間に打ちあげるための、花火を用意して、ラジオの実況放送にかじりついていた。
  前半は予想通りブラジルが1−0でリードしていた。しかし、後半になって、ブラジルの国民は「サッカー場では、あらゆることが起こり得る」という格言を、身にしみて知らなければならなかった。ウルグァイは2点をあげ勝敗を逆転させたのである。
  その瞬間、リオは死の街と化したと、当時の外電は伝えている。
  花火を打ちあげるはずだった民衆は、街頭に出て手放しで泣いた。半旗を掲げる家もあった。スタジアムでは69人が気絶してしまったという。
  ブラジルは、まるで戦争で負けてしまったかのようだった。
  リオのホテルでは2人のウルグァイ人が、ブラジルのファンにナイフで刺されて死んだ。
  このとき、ブラジル全土をおおった悲しみと怒りを知らなければ、その8年後と12年後にブラジルが2回連続優勝したときの、彼らの狂喜ぶりは理解できないのである。


純金の女神の魅力

  サッカーの世界選手権は、ふつうにはワールド・カップとよばれる。正式にはジュール・リメ杯---。第1回の大会が開かれた当時のFIFA(国際サッカー連盟)第3代会長ジュール・リメ氏(フランス)から贈られたトロフィーの名をつけている。
  トロフィーは高さわずか約30センチの女神の像。フランスの彫刻家アベル・ラフルールの作品で純金製だ。
  小さいけれども、この純金の女神の魅力は大きい。
  オリンピックの金メダルの魅力とくらべてはどうか。サッカーの世界では、文句なしに純金の女神に軍配があがるのだ。
  ワールド・カップがはじめて開かれたのは1930年である。その2年後のロスアンゼルス・オリンピックでは、サッカーが行なわれなかった。行なわれなかった理由をオリンピックの本の中には「アメリカではサッカーが盛んではないから---」と簡単に説明しているものがある。しかし、これは少し間違っている。実際はアマチュア資格の問題について、やっかいな問題があり、サッカーの実施を取り止めたのである。
  ワールド・カップは、オリンピックのアマチュア・ルールにしばられない競技会としてスタートした。そしてたちまち、サッカーの魅力は、オリンピックの魅力に、はるかにまさることを証明した。
  東京オリンピックのときに、次回、1968年のオリンピック開催地のメキシコから、大勢の視察員が来た。その人たちが、
  「メキシコでは、1970年にサッカーのワールド・カップが開かれます。オリンピックは、そのよいテストにもなるでしょう」
  といったものである。
  オリンピック至上主義の日本人には、このことばがどうにも理解できなかったようだ。ある新聞では、サッカー大会のほうが先にあるものと間違えて、「オリンピックのリハーサルとしてサッカーの世界選手権を開く」という記事にしていた。
  事実は、まったくその逆なのである。
  オリンピック開催中に外国を旅行したひとたちは、みな
  「大会の記事が、外国の新聞では、非常に小さくしか出ていないのに驚いた」
  という。
  そういうときに、スポーツ面のトップは、サッカー試合の記事が大きく扱われているのである。

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