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高橋祐幸のブラジル便り・目次
 

高橋祐幸(たかはし ゆうこう)

ブラジル・サンパウロ在住。1933年岩手県生まれ。1960年にブラジルにわたり、日本商社の現地法人(三菱商事)に35年間勤務。退職後ボランティアでトヨタカップ南米代表実行委員を15年間務め、川崎フロンターレ、大宮アルディージャのブラジル代表顧問を約8年間務めた。県立盛岡中学(旧制)で、八重樫茂生(メキシコ五輪銅メダル日本代表キャプテン)と同級生だったことがサッカーに携わる機縁ともなって、日本にもブラジルにも広いサッカーの人脈を持つに至った。


 

 


遺稿3
痛みの中で選挙が気がかり (2014/11/26)

◆空桶部屋への階段で転倒
  「絶対にしないように」といちばん注意していたのだが、ついに転んでしまった。
  前の日に、掃除のオバサンが来る前に離れの空桶(カラオケ)小屋を少し片付けておこうと思ったのだが、離れに登る10段の石段を、どうしても登れなかった。
  オバサンが掃除した後が気になって仕方がなかったので、また空桶小屋を覗いてみようと、石段を登ろうとした。
  何時ものように右足から1段登って、左手を手摺にかけて、右手を1段上にのせた膝にのせて、両腕によいしょとばかりに力をこめて左足をあげる。1段ずつ同じ要領で10段を登りきるのだが、両腕に込めた力にも拘わらず、左足が上がらぬまま、コンクリート床にどすんとひっくり返って仕舞った。
  とっさに両腕をついて尻と腰を強打せぬようにかばったのか、両腕 両手を強く床にぶっつけたと思われるが、もう仰向けにのびたまま起き上がれず、空を仰いでいた。
  幸い台所にいた掃除のオバサンが気付いて走ってきて、両脇に自分の腕をさしこんで掬い上げるようにして起こしてくれたので助かった。もし誰も気がつかずにそのまま仰向けで空の雲の観測を続けていたら一体どうなったんだろうか、運がよかったとオバサンに感謝いっぱいだった。
  夜はいつも身体中の骨なのか筋肉なのかが鈍重に痛むことで、なかなか寝付けないのだが、この夜は、へその下からお尻の上の背中に痛みが集中したみたいに痛くなって眠れなかった。
  月曜日(10月6日)から、残っている病院検査が始まるので、女房の運転する車に乗って出掛けるのだが、辛いだろうと心配でならない。

◆サンパウロ州知事選挙も心配
  さて日曜日(10月5日)はいよいよ大統領選挙だが、依然としてジルマが45%と優勢を保っており、シルバーナ候補は20数%まで落ち込み、3位につけていたタンクレード・ネーベス候補が30%近くに急浮上した。
  ジルマもネーベスも50%に達せずに決選二次投票になった場合、ジルマに投票しなかった人達が全部ネーベス候補に票を入れてくれれば、万々歳だが、やはり北東伯20州のバガボンドたちの票は全てジルマに向けられると予想されるので、ジルマ亡国政権が再選されるのではないかと思われる。
  サンパウロ州知事選も現職アルキミンが45%でリードし、スカッフ(日本なら経団連会長に当たるサンパウロ工業連盟会長)が30数%まで追い込んでいるので、やはり決戦投票にもつれこむものと思われる。
  西村俊治財団がSENAI工業学校を財団敷地内に建設し、工業連盟に寄贈した式典で、約100名の午餐会が開かれたとき、列席した貴賓は1人1人立ち上がってスカッフ会長に挨拶していたが、最後まで立ち上がれなかった私を見つけて、スカッフさんの方から私の席に近づいてきて「そのままでどうぞ」と覗きこむようにしゃがんで私に話しかけてきた。
  そのとき私が「戦前・戦中に日本は武器・弾薬の力でアジアを征服しました。戦後は札束の力をもって再びアジアを征服しました。しかし100年前から始まったブラジル移民として渡って来た日本人は武器でも札束でもなく自らの手で土を耕しました。西村俊治翁はまさにその象徴ではないかと私は思います」と言ったところ、スカッフ会長はしっかりと私の手を握り「今のお言葉を私は一生忘れません」と言ってくれた。そういう人だから、私はスカッフさんが決選投票で知事の座についてくればいいなと祈っている。
  しかし、まあ、何でも私の思うようにはならない世の中のことだから、私の望みや願いは実現する筈がないと諦めてはいる。



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