#9
宴のあと(上) 〜2002年・日韓W杯の思い出〜
2002年の日本韓国共催のワールドカップのとき、当時68歳だった私は「生きてるうちに観られる最後のW杯になるだろう」と地球の反対側ブラジルから45日間の滞在で韓国4会場、日本4会場を廻ったが、あれから12年、W杯が何と地元ブラジルに廻ってきて81才になってまだW杯が観られる果報を喜んでいる。
横浜国際スタジアムで親友のFELIPE監督が率いるカナリア軍団がW杯史上初の5回優勝を達成した時の感激を「今いちど」。FELIPE監督の采配で6回優勝の記録を打ち樹てる場面を臨場で観れたらと思うものの、いまやスタンドの昇り降りが出来なくなった足腰の弱さでは家の中に閉じ籠ってテレビ観戦しか出来ないが、それでもカナリア軍団の試合がある日はテレビの前でオイオイと感涙に咽び泣くことになるだろうと思っている。
以下は、ブラジル・セレソンの応援に行ったときの日韓ワールドカップ旅行記で、地球半周を往復して帰国した当時、書いたものである。
(以下2002年9月記)
★日韓8会場都市をまわる
蒸し暑く雨も多い(2002年)6月の韓国と日本で行われた第17回ワ−ルドカップは,ブラジルがペンタ(5回目の)優勝という偉業を記録し、韓国が世界の強豪イタリア、スペインを破って準決勝戦まで進出、日本も予選リ−グを勝ち抜いて決勝ト−ナメントに躍り出るなど共催国として大会を盛り上げた。優勝候補の呼び声が高かったフランス、アルゼンチンなどが予選リ−グで早々と姿を消すなど、何が起こるか解らないと言われるワ−ルドカップの凄さをまざまざと見せつけた大会でもあった。
私はCBF(ブラジル・フットボ−ル連盟)からブラジル代表チ−ムが出場する試合を全て観戦出来る特別入場券を貰ったので.45日もの長旅となる盛大な無駄遣いを心配しながらも、生きているうちに見られるワ−ルドカップの最後のチャンスになろうかと思い切って出掛けることにした。
韓国では釜山、ウルサン、済州島、ソウル近郊の水原の4会場、日本では神戸、静岡、さいたま、横浜の4会場を転々と廻って、ブラジル代表が戦った8試合を全て観戦し、興奮・歓喜・感動を身をもって味わいながら旅を続けた。
ことにあの横浜国際スタジアムに天皇・皇后両陛下をお迎えして、ドイツとの壮烈な戦いを演じた果てに優勝をものにした瞬間に立ち会えた感激は、私の冥土への素晴らしい「みやげ」になったといま改めて深い感慨にふけっているところである。
★警備をかいくぐってセレソンの宿舎へ
先に述べたCBFからの特別入場券が、私がサンパウロを出発する当日まで届いてなく、すでにエアーチケットは手配済、ワールドカップ便乗値上げで普段の倍以上になっていると云うホテルの予約なども済ませていたので、不安と焦燥が高まって血圧はグーンと跳ね上がってしまったが、直前になってブラジル代表選手団が泊まっている韓国のホテルで受け取るようにという半信半疑の通知を貰って飛び立ったのである。
成田から釜山を経由して辿り着いたウルサン市はヒュンデェ・マ−クの自動車で有名な現代重工グル−プの城下町で、市の半分は同グル−プの工場群、半分は従業員とその家族の住宅群とでもいうべき街であった。
選手団は同市で最も豪華な「ホテル現代」に陣営を張っていたが、その警戒の厳しいことといったら、まるで1キロもあろうかと思える警官隊のトンネルを潜って近づくようなものだった。
ブラジル選手団がウルサン市をベースキャンプに決めたのは、現代グループの総師(会長)チョモンジュ氏が大の親ブラジル派の人物だったからである。
チョモンジュ氏は、KFA(韓国サッカ−協会)会長、FIFA(国際フットボール連盟)副会長でもあり、日本単独開催案と争って日韓共同開催誘致を成功させた人物である。カナリア軍団のセレソンは、その現代重工のお膝元をキャンプにしたのである。
さて厳しい警戒網を突破してやっとホテルのロビ−に辿り着いたものの「私共は選手団とのコンタクトを一切禁じられておりますので、どなたさまであろうとお通しする訳にはいきません」とにべもない対応。おまけにさっぱりチンプンカンプンのハングル語でまくしたてられるものだから、もし入場券が手に入らなかったらどうしようかと、遥々と出掛けて来たことの後悔しきりであった。
途方にくれた私がロビ−の雑踏の中でTVグロ−ボの有名なスポーツ・アナウンサ−であるガルボン・プエノ氏を見つけた時には、地獄で仏に出会ったとはまさにこのことかと思った程である。
やっとフェリッぺ監督を呼び出してもらって(韓国内予選3試合の)入場券を手にしたのは、試合当日の昼過ぎと云うギリギリの滑り込みセ−フであった。
★和やかな観客、穏やかなスタンド
韓国ではウルサン市で対トルコ戦、観光リゾート地として有名な済州島で対中国戦、首都ソウルに近い水原市で対コスタリカ戦を観たが、全ての試合は世界中にTV放送されて誰もが観たのであるから、試合の中身は今更言うまでもないので、現場に居た者でなければ見られなかったいくつかの話しの種を紹介してみたい。
まず、どの会場でも目立ったのは子供連れの家族ぐるみの応援観客が多いことだった。飲み物を持ち込み、お弁当をひろげ、いかにも和やかな光景は、日頃乱闘騒ぎと背中合わせの危険な試合しか見慣れていない私には、プロのフットボ−ル試合らしからぬ幼稚園の運動会にでも迷いこんだような錯覚さえ感じたものだった。
座席にしてもボランティアが案内する指定席に静かにつき、頻繁な子供のオシッコの出入りなどに和やかに通路を開けてやるなど、ブラジルのような早い者勝ちの割り込みや席取り合戦は見られない、実に穏やかな風景であった。
試合終了後の退場に当たっても各自が食べたり飲んだりしたあとの容器や空き壜を袋に集めて出口に整列しているボランティアの持つ大きなゴミ袋に入れて行き、それにボランティアさんたちがいちいち「有り難うございました」と頭を下げて見送っている行儀の良さは外国から来た取材記者たちの注目の的だった。
★国を挙げて燃えた韓国
バンデ−ラ(国旗)模様(緑黄青)のビキニ姿でサンバのリズムに腰をくねらせるブラジル女性の応援団は、韓国人からも日本人からも試合以上の人気で一緒に記念写真を撮りたいと申し込みがあとを絶たず、おまけにブラジル女性からホッペタにチュッとサービスでもされようものなら皆んな大興奮フラフラになって大喜びのはしゃぎようだった。
韓国では国中・街中いたるところに出場国の国旗と歓迎の横断幕が掲げられて、テレビは全てのチャンネルが全日実況放送か再放送をしていたが、アナウンスも字幕も全てハングル語で皆目見当さえつかなかったので、韓国でも映るNHKのBS放送に廻すとイチロ−を追いかける米国大リ−グの野球中継をやっていてワ−ルドカップなど何処吹く風といわんばかりだった。
韓国では老若男女を問わず国民総キムチカラ−のシャツで埋め尽くされており、ことに韓国代表の試合日には大群衆が街頭応援に繰り出し、その熱狂ぶりは壮観そのものだった。
ましてや韓国代表が準決勝を戦った日にはソウル市役所前の広場と大通りに
200万人、全国で600万人の大歓声が野外に湧きあがったと云うから、日本代表の試合に渋谷駅前のハチ公広場や新宿西口広場に集まった青シャツ応援団は僅か数百人単位というのと比較しても、如何に韓国が国をあげて燃えていたかが知れようと言うものである。
因みに韓国代表選手への大統領の大盤振る舞いは、監督に8000万円(約70万ドル)、選手に一律6000万円(約50万ドル)のプレミアム支給の他に、兵役の免除、高級自動車1台、世界一周ファ−スト・クラス航空券、国内有名ホテル・レストランなどの生涯無料利用券などが与えられたと伝えられていたし、一躍英雄となったヒディンク監督には(外国人には特例の)国民栄誉賞が与えられたばかりか、折から子息がからんだ汚職スキャンダルで人気が凋落した金大中大統領に代わってヒディンク氏を大統領にとの国民の大合唱が沸き上がった。
ワ−ルドカップに燃えた韓国々民の熱烈さが窺い知れようというものである。
★日本での話題はお門違い
韓国で予選リ−グを勝ち進んだブラジルチ−ムの後を追って日本に移動してみたら、あの韓国でみた熱っぽさはどこにもなく、大会後の大球場の運営に地方自治体が頭を悩ましているとか、空席が目立ったと言われる入場券問題に大臣までが遺憾を表するとか、なにかお門違いの感を免れなかった。
日本の会場はどこでも出稼ぎ日系人の応援が多く、審判や相手チームに「カラーリオ」とか「フィーリャダ……」とかの罵声と怒声を浴びせかけるのは耳をふさぎたくなる汚いものだった。日ごろの苦労の鬱憤を晴らしてぶちまけているものであろうと同情的に聞き流すことにしたが、周りの行儀のいい日本人観客を無視した耳をつんざく大声と大騒ぎぶりには、いささかうんざりさせられたのが正直なところであった。
準決勝と決勝戦の入場券にお弁当とお土産付きで25万円もすると云うのがあって、インタ−ネットで受け付けたその前売り券が僅か20分間で完売されたということには、さすが金満国の日本と感心するやら呆れるやらだった。
またブラジルに負けて帰国した英国のベッカム選手の泊まったホテルの部屋に女性ファンの予約が殺到したという笑い話みたいな話題とか、全員茶髪に染めた日本代表選手にただ一人茶髪でなかったのは(茶髪の国)ブラジルから帰化した三都主(サントス)選手だけだったとか、アフリカの選手が合宿したナントカ村のナントカ焼酎が大ヒットして日本一の有名な村になったとか、とかくサッカ−とは関係ない話題で賑わっていたことも、私には奇異に映ったものである。
我がセレソンが横浜国際スタジアムに天皇・皇后両陛下をお迎えしてドイツ代表と死闘の果てに優勝してFIFAブラッタ―会長、ドイツのベッケンバウエル、ブラジルのペレーなど往年の名選手たちからワ−ルドカップがセレソンのキャプテン、カフゥに手渡され、カクテル光線の中に何十万羽の折鶴が舞い降りる中で全選手が小躍りする様を目の前にして、私は興奮と歓喜と感動のあまりに溢れる涙が止まらず困って仕舞ったが、周りの人の目につかなかったのは場内を揺るがす大喧騒にまぎれて目立たなかったからであった。
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親友のFELIPE監督と |
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