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高橋祐幸のブラジル便り・目次
 

高橋祐幸(たかはし ゆうこう)

ブラジル・サンパウロ在住。1933年岩手県生まれ。1960年にブラジルにわたり、日本商社の現地法人(三菱商事)に35年間勤務。退職後ボランティアでトヨタカップ南米代表実行委員を15年間務め、川崎フロンターレ、大宮アルディージャのブラジル代表顧問を約8年間務めた。県立盛岡中学(旧制)で、八重樫茂生(メキシコ五輪銅メダル日本代表キャプテン)と同級生だったことがサッカーに携わる機縁ともなって、日本にもブラジルにも広いサッカーの人脈を持つに至った。


 

 


#7
往く年来る年に寄せて

「そろそろお迎え」のオオカミ老年
 「もうそろそろお迎えが来る筈」「コンゴーニャス庭園墓地に潜る日も近い」「いつ逝くことになっても準備万端OK」等々と言い続けてもう10年になろうとしている。
 80歳になっても言い続けているので「オオカミ少年がまた始まったと」誰も相手にしてくれなくなった。
 「どうだいあの顔色の良さ、艶の良さ、なにがお迎えなもんか」「ほれ、あの水割りの飲みっぷり、あれじゃ、お迎えの方が逃げていくわい」とか、さんざんケナされたあげくに「百歳までは頑固爺・不良爺として生き延びるに違げえねえから、もうお前のくだらねえお迎え談義なぞ聞きたくない」と言われている。
 私は、俄然反撃に転じて「1990年から2008年までの18年間、30回近い訪日を繰り返したが、その都度『祖国の土を踏めるのはこれが最後の機会になりゃせんかいな』といつも真剣に思っていたものだから、毎回スケジュールを変えては、名勝古跡(社寺仏閣、お城跡、美術館、水族館、音楽会、庭園などを)巡り、訪ねては四季の花々を愛で(ことに好きだったのは桜とツツジと藤と薔薇と紅葉)、行った先々の名産や珍味を一流料亭に招ばれてご馳走になり、高級バーでのご接待を受け、政財界の有名仁氏、大学の名誉教授たち、ジャ−ナリストたちから有名な芸能人まで含めた多彩な人脈たちとの懇親するなどなど、やるべきことは全てやったと云う満足感・充足感から、いつ死んでも悔いはないと云うことを言い続けてきたものであって、それは尽きない感謝の意をこめて言ったり書いたりしてきたものだから、決してボヤいたり、ホザイたりしたものではないことであり、また家族にも誰にも迷惑が掛からぬように(まだピンピンしている今のうちに)ピンコロで逝きたいことに望みをかけて言い続け、書き続けてきたことであって狼少年扱いとは貴殿たちの誤り」と決めつけて大反論を締め括った。

◆カラオケとワイン三昧
 私の半生(というより)3分の2以上は、言葉を覚えず、習慣にも馴染まず、懐は常に薄くて寒く、境遇はいつも侘しく、惨憺たる生き様に不平・不満だけを募らせたブラジル移民生活だったが、40歳を越えた頃から、やっと人並みにオマンマとオサケにお目に掛かれるようになり、25年間住んで子供(娘3人)を育て、みなブラジルの東大と言われるサンパウロ大学を卒業させ、住居を末娘の結婚祝いにくれてやり、15年ほど前に建てた「終の家」に引っ越し、今は孫(男児)2人の面倒をみながら、障子を破られ、壁を汚され、絨毯に染みをつけられ、家具を傷つけられ、器物を壊されるのをニコニコと見詰めながら好々爺らしく生きることに徹している。 とはいえ、心は常に穏やかならず、カミナリ女房に堪え、娘たちと婿殿おまけにチビギャングなどのスネカジリの犠牲になってることにも耐えて我慢の子に徹している。だからこそ早く深く静かに潜航して休眠したいと願うのもひとつの理由である。
 家にいれば離れに作ったカラオケ道場に籠って、ご飯の時と寝る時間にしか母屋へ戻らずにいられること、月一回は燦凛会と3K会の「お歌の稽古会」で盛り上がること、メンバーが持ち込む18年もの21年ものなど高級ウイスキーのご相伴にあずかれること、MERCOSUL(南米共同市場)で関税のなくなった安価なアルゼンチン産、チリ産の銘柄ワインを晩酌に欠かさぬこと、やはり月一回の「やまとクラブ月例懇親会」で旧友たちと和気藹々の懇談ができること、たまには水鳥会(大吟醸酒だけを飲む会)に招ばれることなどなどが仙人になる前の現役時代を懐かしく偲べる数少ない外出の機会である。

★西村俊冶記念館の仕事
 今年(2013年)後半からは「西村俊冶記念館」建設のプロデューサーとしてのボランティア仕事に参加できることになった。
 西村俊治翁は、ブラジルで、一介の移民から身を起こし、農業機械製造の事業で成功し、数々の社会貢献をした偉大な人物である。3年前(2010年)に99歳で亡くなられたが、私は50年以上のお付き合いをいただいた。
 今は西村財団内にある西村俊治翁の記念館を、来年(2014年)、4000万レアイス(約2000万ドル=約20億円)を投じて改築・改造・移設することになっている。
 その事業をお手伝いするために、ボンベイア市の西村俊治農業技術財団(FSNT)のホテルに逗留して仕事らしい仕事に熱中できるようになり、財団に出入りする知名士諸公と会談・懇談ができることになった。これが、どれほど私の気持ちを引締め生きる張り合いになったことか。
 「これならあと4、5年は生きていてもいいや」と虫のいい思いにもなっていることも正直なところである。
 俊治翁の子息5人+ご夫人方5人(二世)、その息子・娘・それぞれの配偶者が約25人(三世)、そのまた子供たち約15人(四世)、合わせて50人ほどが毎週日曜日にはファミリー(団結再確認)昼食会を(旧俊治邸の大食堂で)開くが、五男のJORGE氏か次男の治郎氏が敬虔なミサを捧げて始まるこの昼食会に参加する皆の、如何にも西村家の一族であることの誇りに満ちた晴れ晴れしい顔ぶれをみると、お爺さんの背中を見て育った素晴らしい親孝行揃いのいいファミリーたちだなと羨ましく感じられてならない。
 私が財団内のホテルに逗留している期間中、この一族はまるで私が俊治翁の再来であるかのように面倒をみてくれる。
 JACTOの社員大食堂で昼ご飯を食べているとき、隣接する「西村俊冶小中学校」に通っている子供たち大勢と一緒になることがあるが、そのなかに西村一族の曽孫(四世)が一人でもいれば、500人ものテーブルの中から私を探し出してちゃんと挨拶しに来る。私には可愛いと思うよりも有難い児だなと思えてならない。

★俊治翁の一族の社会貢献
 西村財団は、一昨年(2011年)は9000万レアイス(約4500万ドル=約45億円)を投資して「FATEC農工技術大学」を建設してサンパウロ州に寄贈した。感動した州知事(州政府)は異例の特令を出して州立大学を「西村俊冶農工技術大学」と命名した。
 今年は6000万レアイス(約3000万ドル=約30億円)を投じて「SENAI農工技術専門学校」を建設してFIESP(サンパウロ州工業連盟=日本の経団連にあたる)に寄贈した。これも、感激した連盟総裁が「西村俊冶農工技術専門学校」と命名した。今や両校合わせて1200名の若者たちの学園となっている(この「精密農業」を主題とするユニークな大学と専門学校は世界からも注目され米国のオクラホマ大学と東京農工大学から学術提携の申し入れがあり協定を締結している) 。
 西村一族の経営するJACTO企業グループは、1台が20万ドルから30万ドル(2000万円/3000万円)もする大きな自動噴霧機を一日に15〜20台も製造し出荷しているが、その利益を惜しげもなく財団に注ぎこんで、ブラジルの産業発展、輸出貢献ばかりか、次世代の世界の農工業を拓いていく若者の人材育成にまで尽くしている。その俊治翁の遺族たちの真摯な生き方に私は限りない感銘を受けている。
 ブラジルには、せっせと脱税に励み私財を肥やすことだけに力を注ぐ経営者もいるが、日本人の血を継いでいる俊治翁の子孫たちは、まったく違う。
 私も俊治翁の最大のアミーゴであったことを誇りとして、微力ながら西村一族と共に働けることは、大きな生きがいになった。
 「まだお迎えが来ない」などとホザキながらも「長生きするだけの価値はあるな」と至福の感に浸っていられるのもまた事実である。
 私の口癖である「まだお迎えが来ない」「まもなくお迎えが来る」は、神様仏様に、また人脈諸兄に、西村財団に、西村一族に、そして自分自身と家族に対する感謝の表現である。
 去り行く2013年へのメッセージとして書き留めたかったのであり、2014年への希望を祈る言葉でもあることを、改めて申し述べて「言い訳ではなく」皆様の理解と納得を頂きたいものと長々とした駄文を「御免蒙る」。

西村俊冶が開発し世界の農業に革命をもたらした大型農業機械。 人物は筆者。
(写真上)
衛星コントロールで真っ暗闇の中で無人稼働できるマンモス噴霧機械。
(写真下)
コーヒー自動収穫機。労務者100人で3日間かかる量を僅か1時間で収穫する。

 

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