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高橋祐幸のブラジル便り・目次
 

高橋祐幸(たかはし ゆうこう)

ブラジル・サンパウロ在住。1933年岩手県生まれ。1960年にブラジルにわたり、日本商社の現地法人(三菱商事)に35年間勤務。退職後ボランティアでトヨタカップ南米代表実行委員を15年間務め、川崎フロンターレ、大宮アルディージャのブラジル代表顧問を約8年間務めた。県立盛岡中学(旧制)で、八重樫茂生(メキシコ五輪銅メダル日本代表キャプテン)と同級生だったことがサッカーに携わる機縁ともなって、日本にもブラジルにも広いサッカーの人脈を持つに至った。


 

 


#5
私のサッカーとの出会い(下)

(2006年にサンパウロ新聞に連載した記事を一部、書き直したものです=編集部)

★トヨタカップへの貢献
 1995年にグレミオの2度の訪日の世話をした経験と実績が役に立って、1996年神戸レコパJALカップ、その後にトヨタカップに出場した1997年のクルゼイロ、1999年のパルメイラスの訪日の際も選手団引率の役割をはたすことになった。
 1995年のトヨタカップでは、グレミオの本拠地であるポルト・アレグレ市と金沢市が国際姉妹都市であるところから、グレミオのファビオ・コフ会長夫妻と私が、金沢市を訪問、歓迎行事を受けた。
 どの試合も特別貴賓席で観戦できた。
 日本サッカー協会名誉総裁・高円宮殿下ご夫妻、FIFA(世界サッカー連盟)、UEFA(欧州サッカー連盟)、CONMEBOL(南米サッカー連盟)、CBF(ブラジル・サッカー連盟)の首脳部、トヨタ自動車社長ご夫妻、日本の政財界の特別招待者、駐日ブラジル大使、伯銀東京支店長、VARIG(ブラジル航空)極東支配人など、日本とブラジルのきら星の如きVIPとともに観戦できたことは、なんとも光栄なことで、麻薬に捕り憑かれたように金縛りにあって、この世界から足を抜けないまま、十数年を重ねてしまった。

★サッカーを通じて日伯親善に奉仕
 Jリーグがはじまる前後から、ブラジル人選手の移籍を仲介するブローカーや、サッカー少年の研修を斡旋するブローカーなどが輩出して、日伯間のサッカー交流は、かつてない発展をみて俄か成金も生まれたが、私の場合は選手団引率の実費はいただいたものの自分の懐からの持ち出しのほうが多く、緊張と困難を強いられる大変な仕事の連続だった。
 しかし、日伯双方のサッカー界に、役員、監督、選手などの多くのアミーゴ(友人)ができた。
 また、1年越しの予選を勝ち抜いて世界大会の芝を踏む感激、優勝の瞬間の感動と歓喜など、ふつうには経験できない舞台に立ち向かうことができた。
 これは、いかなる価値にも代え難い人生経験だった。
 自分で言うのはおこがましいが、大きなボランティア奉仕を果たしてきたことに誇りがいっぱいである。
 日本が2002年ワールドカップの誘致運動をしているときに「長年にわたって、トヨタカップを開催してきた国際大会開催のノウハウがある」ことをスローガンにした。これがFIFAの評価につながったことは、紛れも無い事実である。
 そのトヨタカップに携わって、いささかでも貢献できたことは、私の大きな誇りである。

★超一流クラブの名誉領事に
 南米と欧州のクラブ・チャンピオンが対決するトヨタカップは2004年で、20数年間続いた歴史を閉じ、2005年からFIFA主催の「世界クラブ選手権(6大陸代表が出場)」に発展的に吸収された。
 そこで10数年にわたった私の役割も終わったのだが、2005年の南米大陸チャンピオンになったサンパウロFCが、日本に招かれることになり、同選手団コミッションのメンバーに加わって、また日本遠征に参加した。このときは、サンパウロ市と国際姉妹都市である大阪市との間で、市長のメッセージ交換のセレモニーを企画して実現させた。
 トヨタカップで日本に遠征したグレミオ
(1995年)、クルゼイロ(1997年)、パルメイラス(1999年)の各クラブからは、私の働きを多として「コンスル」(名誉領事)の称号と徽章をいただいていたが、これに加えてサンパウロFCからも称号を受け、私のサッカー奉仕経歴に、また一つの栄誉が加わった。
 十数年続けてきたサッカーを通じての日伯親善ボランティア奉仕に幕を閉じるに当たって、私はいま、誰もやらなかった、誰も経験し得なかった感動、感激、歓喜、栄誉などにひたれたことに大いなる誇りと満足を感じている。

(2006年7月18日付、サンパウロ新聞掲載)

 

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