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◆ビバ!スポーツ時評


サッカーの視点からみた「日本プロ野球の再編成」
(2004/9/20)

エピソード1:クラマーさんの提案

 日本サッカー再編成の基礎を作った人にドイツ人のデトマール・クラマーさんがいる。 1964年の東京オリンピックの前に当時の西ドイツから招かれて、日本代表チームを強化しただけでなく、日本のサッカーの考え方や組織を変えるために活動した。
 日本に来てクラマーさんが驚いたことの一つは、トップレベルのチーム同士の試合が少ないことだった。当時、有力チームは大学と実業団(会社)チームに分かれていて対戦の機会は、ほとんどなかった。また全国大会は勝ち抜きのトーナメントばかりで、地方の有力チームは、勝ち進まないかぎり、中央の強いチームと争う機会はなかった。
 そこで、クラマーさんは、大学であろうと実業団であろうと、強いチームを集めて全国リーグを組織することを提案した。
 東京オリンピックのあと、この提案によって日本サッカー・リーグが結成された。大学チームの参加は見送られ最初は会社チームだけだったが、やがてクラブチームも昇格して加わった。この日本リーグがもとになって1993年からプロ化してJリーグになった。
 現在のJリーグは一部のJ1と二部のJ2があり、その下にJFL(日本フットボール・リーグ)がある。さらに、その下部には地域リーグがあって、底辺から頂点までつながるピラミッド型の組織になっている。


エピソード2:1975年の赤ヘル旋風

 プロ野球の広島東洋カープが、1975年(平成50年)に初優勝した。ヘルメットを赤色に変えた年だったので「赤ヘル旋風」と呼ばれた。
 その前年に広島球団の新代表に重松良典さんがなった。重松さんは慶応大学、東洋工業でサッカーの名選手だった。日本代表にもなった。その人が東洋工業の経理部長から転出して未知のプロ野球の世界に入った。
 オープン戦の前に重松さんが、ぼくをつかまえて「セ・リーグは巨人を中心に盛り上げていかなければいけないんだよ」と話した。重松さんは、ぼくをサッカー記者としてしか知らなかった。だから、そう教えてくれたのだが、当時ぼくは読売新聞のスポーツ記者としてプロ野球も担当していた。
 「ははあ、鈴木竜二さんに会ったな」と、ぼくは推測した。鈴木竜二さんは、当時のセ・リーグ会長である。巨人中心主義者だった。
 「シゲさん。カープの公式戦は地元では65試合あるんですよ。そのうち巨人戦は13試合しかない。13試合の巨人戦だけで稼ぐより、65試合全部で稼いだほうがいいですよ」
 その年、カープは快進撃を続け、広島球場は「赤ヘル旋風」にわき、広島球団は創設以来の累積赤字を一挙に解消した。

 

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