サッカーマガジンとの40年
〜連載打ち切りの牛木素吉郎先生にきく〜 (3/4)
(聞き手) 保坂きしこ
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日本のサッカーを変えたメディア
★ サッカーマガジン、ダイヤモンドサッカー、キャプテン翼
―― 先生の提案は、いまでは、だいぶ実現していますね。
牛木 当初は少数派で聞き入れてはもらえなかったけれども、40年たったいまでは、ほとんどが実現していると思います。自分でも、先見の明だったなと思っています。キャンペーン記事を掲載してくれた、当時の「サッカーマガジン」編集部は、もっと評価されてもいいと思います。
ぼくは、なかば冗談で「1964年の東京オリンピック以降、Jリーグ発足までに、日本のサッカーを変えたマスメディアが三つある」と、よく言うのです。ひとつは『サッカーマガジン』ですが、あとの二つは何だと思いますか?
―― うーん、テレビの衛星中継ですか?
牛木 テレビについては、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)でやった『ダイヤモンドサッカー』が、最初の功労者でしょうね。イングランドのサッカーやワールドカップの放映を見て、刺激を受けた人は多いでしょう。
三つ目は何でしょうか? これをある人に言ったら、ぼくが、それを知っていることに驚いていた。つまり、ぼくたちの世代には、なじみがないように思えるものです。しかし、ぼくより若い年代の人は、よく知っていると思います。
―― ……『キャプテン翼』ですか?
牛木 そう 『キャプテン翼』です。根性とか精神論ばかりのスポーツ漫画の中で技術論を描いた。それが画期的でしたね。
★ 協会首脳部降ろし
―― 日本サッカー協会への批判も書いていますね。
牛木 1960年代の「サッカーマガジン」を読み返してみると、当時のサッカー協会の首脳部を総取替えさせようという論調で、批判記事をずっと書いています。
当時、サッカー協会の長期政権だった小野卓爾さん(当時の常任理事)を降ろそうという動きがあって、それを応援するような記事です。
1966年の創刊から1976年に小野さんが専務理事を降りるまで、その調子でやりました。小野さんだけでなく、当時の協会の首脳部全員を対象にしています。狙いは「協会首脳部の若返り」です。
当時の協会首脳部は、1936年のベルリン・オリンピックに役員として行った世代でした。この人たちは古すぎるという批判ですね。対象はみな、ぼくが非常にお世話になっていた大先輩ですが、遠慮しないで書いています。
1976年のモントリオール・オリンピックの年に小野さんが失脚して世代交代が実現したのですが、協会改革が成功したとは必ずしも言えない。1990年代になって、Jリーグが発足するまで待たなければならなかったことも多かった。この間の事情は、もっと調べて、書き残す必要があると思っています。
サッカー専門とはいえ商業雑誌で、協会内部の権力抗争という政治的な問題を扱ったことは、ジャーナリズムとして、いいことだったかどうかについて、見方が分かれると思います。けれど、協会の歴史に対して影響力があったとは思っています。
いまから思うと「サッカーマガジン」の当時の編集部が、よく載せてくれたものですね。
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